いま香港は、どれほど中国化しているのだろうか

香港がイギリスから中国に返還されて20年が経った。香港が置かれた「一国二制度」とは、高度な自治を約束され、中国本土の社会主義体制に染まる必要がない50年の猶予期間。当初はこの間に、中国が香港化するのではないかという「期待」もあっただけに、今日の結果を誰が予想できたであろうか。
現実は、香港が中国化してしまった。その現実を認めるには、なにも返還記念式典に中国の習近平国家主席がやって来て、「中央政府への挑戦は許さない」と演説して香港の独立気運ににらみを利かせる必要も、閲兵式と称して誰に銃口を向けているかわからない人民解放軍を見せびらかす必要も、実はなかった。
ここに取り上げた中国人の庶民の目を通して見れば、香港がいかにして中国化しているのかがよくわかる。香港と中国本土の間(はざま)にいる家族を通じて浮き彫りになる「香港問題」を3回に分けてお届けする。

深圳から香港まで登校


香港と深圳を結ぶ文錦渡の出入境管理。わが子の帰りを待つ親たち

中国大陸南部の広東省にある経済都市、深圳。深圳は香港と隣り合っており、徒歩で往来できる出入境ゲートを複数持つ。その1つである「文錦渡(ぶんきんと)」ゲートを、気温も湿度も高い6月のある日に訪ねた。香港からやって来る人たちの出口は、空港の到着ロビーのような雰囲気だが、「ちょっと近所にお買い物」風のラフな服装の大人たちが集まり、わが子の帰りを待っていた。


午後4時過ぎ、香港から深圳に戻って来た子どもたち、文錦渡で撮影

午後4時を過ぎる頃から、制服を着た子どもたちが次々と現れる。体操着らしき半袖半ズボン姿もあれば、白いブラウスとスカートの日本でいえばお嬢様学校を連想させる姿もある。皆、一様に首からパスポート大のクリアケースをぶら下げている。中に入っているのは彼らが毎日ゲートを通るために必要な通行証である。顔写真が入った日本の運転免許証のような形式である。

すでに夕方にもかかわらずじっとり照りつける日差しの中、大人たち制止を聞かず、旋回する戦闘機のように駆け回る子どももいる。どこの世界でも子どもはエネルギーの塊だ。この子どもたちは、香港の幼稚園や学校で授業を終えて今、家のある中国側に帰ってきたのだ。毎日繰り返される下校風景である。

中国本土から子どもを香港に通わせる家族を訪ねた。

深圳市内のマンションに住む田峰涛さん(37歳、年齢はいずれも取材当時)と妻の周粉莉さん(36歳)。通されたのは、白いリノリウムの床の広々としたリビングで、壁には子どもの予定表などが貼ってある。見慣れぬ来客に興奮して飛び回る子犬をよく見れば、左前足に丁寧に包帯が巻かれている。「転んで骨折したのですよ」と穏やかにほほ笑む田夫妻は、中流の上といった暮らしぶりがにじみ出ていた。


長女を香港に通わせる田峰涛さんと周粉莉さん夫婦、深圳の自宅にて

算数も英語で勉強

夫妻には、2人の娘がいる。おそろいの赤いTシャツが愛らしい。長い髪を頭の上でまとめてピンクのリボンを結んでいるのが長女で5歳の恩熙ちゃん、男の子のようにまゆや耳が出るくらいに髪を短く切っているのが次女で3歳の謹熙ちゃん。香港の幼稚園に通っているのは姉の恩熙ちゃんだ。


粉莉さんが恩熙ちゃんの宿題を手伝う。科目は算数だが英語が使われていた

母の粉莉さんが「エイティーン、ナインティーン……」と声に出して、恩熙ちゃんの宿題を手伝っていた。英語の勉強かと思ってプリントをのぞき込むと、行儀よく並んだ飛行機やバスの絵が描いてある。粉莉さんが「(科目は)算数ですが、英語を使っているのですよ」と教えてくれた。

香港では英語も公用語。幼稚園から学ぶ。授業では香港の人たちの母語ともいえる広東語が使われる。大陸の公用語である普通話(いわゆるマンダリン)と呼ばれる中国語とは異なる。だから大陸から香港に通う子どもたちは広東語も習得しなくてはならない。

田さん夫妻は、2012年、お産がまもない、というタイミングを見て深圳から香港に渡った。そして2日後に香港の病院で長女恩熙ちゃんを出産したという。その理由について母の粉莉さんはこう言う。

「香港で産むと決めたのは、当然、子どもにより優秀な教育を受けさせるためでした」

これについては後述するが、当時は両親とも中国人でも、香港で生まれた子どもは香港籍を得られた。田さん夫妻も2人とも大陸で生まれ育った生粋の中国人だが、恩熙ちゃんは香港籍を得た。


長女を香港に通わせる田峰涛さんと周粉莉さん夫婦。「子どもを香港で産んだのは教育のため」と話す。深圳の自宅にて

香港籍を持っていれば、香港で公立の幼稚園や学校に通える。学費は、幼稚園では一部個人負担があるそうだが、小学校以降は基本的に無料だ。

父の峰涛さんが続ける。

「香港の教育資源を考えたからです。香港の教育の経験や環境は、大陸よりもいいですから」

さらに将来、子どもの出国や留学に際しても有利と判断した結果だという。香港パスポートの所有者に対して現在、158の国と地域がビザ免除措置を取っている。夫妻が考慮したのはこの点という。ちなみに大陸の中国人に対してビザ免除処置を取っている国や地域は70程度で半分以下だ。

「将来、子どもの進学に際して世界的な選択が可能になります。子どもの国際化はとても大事だと考えています」

「双非」が増えた理由

田さん夫妻のように、香港籍の子どもの親が2人とも中国人の場合、「双非」と呼ばれる。父と母の「双」方とも「非」香港人という意味だ。

「双非」の子どもが生まれたのには背景がある。2001年、庄豊源という人物の籍をめぐり、香港で最高裁判所にあたる終審法院が「両親が香港籍でなくても生まれた子どもに香港籍を与える」という判断を示した。するとこれがきっかけとなり、中国本土から妊婦がこぞって香港にやって来て出産するという現象が起きた。香港の産婦人科はつねに中国人であふれ返っていたという。

こうして生まれた「双非」、つまり香港人ではない両親を持つ香港籍の子どもの数は、2001年には年間で620人、10年後の2011年には年間3万5736人に増えている。この極端な増加には香港社会から反発の声も上がり、香港政府は2012年には、香港の産婦人科に対し、中国からの妊婦の受け入れを制限する措置を取る。さらに2013年以降に生まれた子どもには香港籍を与えないことを決めた。この2001年から2012年の間に計20万人以上の「双非」の香港籍の子どもが生まれた。

田さん夫妻の2人の娘の誕生は、香港政府の籍に対する方針のちょうど変わり目に当たった。次女の謹熙ちゃんは、香港での出産が許されなくなった後、2014年に大陸で産んだ。そのため中国籍である。香港の幼稚園には通えない。深圳市内で姉とは異なる幼稚園に通っている。


田さん夫婦は2人とも中国籍。娘の恩熙ちゃんは香港籍だ


恩熙ちゃん(左)と次女の謹熙ちゃん

私と両親が話をしている間、姉は大人しく宿題をしたりお絵描きをしたりしているが、妹はこちらにはお構いなく、プラスチックの積み木をガラガラとひっくり返して大きな音を立てては、きゃっきゃっと喜んでいる。おてんばである。峰涛さんは、2人の差は、生活環境からではなく、もともとの性格の違いだと思うと言いながらも、2人の通う幼稚園の違いを教えてくれた。

幼稚園の違いは?

「香港の幼稚園が大陸と違うのは規則がある点です。公共の場で大きな声を出してはいけない。行列に並ばなくてはいけないし、ゴミを勝手に捨てたりはしない。子どもをすでに2年間香港の幼稚園に通わせていますが、変化は大きいです。やはり内陸の教育とは違うと感じています」

さらに、いちばんの違いはしつけだと思います、と続ける。


「いちばんの違いはしつけ」と話す田峰涛さん。後ろは香港の幼稚園に通う長女の恩熙ちゃん

「上の子の幼稚園のイベントに参加すると子どもたちのしつけがいい。きちんと並ぶし、遊んだりするときもよく話を聞いて従っている。でも大陸のほうの子どもたちは走り回っているし、先生も大きな声で叫びながら追っかけています」

後日、田さん一家の朝をお邪魔した。


アヒルの形をした菓子パンをほお張る恩熙ちゃん。朝食はいつも車の中だ

香港に通う恩熙ちゃんの起床は午前6時40分。寝ぼけたまま母親に制服を着せられると、10分後には父親の運転する車に乗っている。朝食は車の中だ。峰涛さんが「何食べたい?」と聞くと消え入るような声で「アヒル……」と答えた。アヒルの形をした菓子パンのことだ。紙パックの牛乳を吸い、峰涛さんから受け取った「アヒル」をほお張ると、少し笑顔が戻った。


香港に向かうスクールバスを見送る田峰涛さん

20分ほどのドライブで、峰涛さんが娘の手を引いて車を降りた先には、ピンクと黄色でデザインされた大型バスが待っていた。深圳から出発し、香港で複数の学校を回りながら子どもたちを降ろしていくという。泣き叫んでバスに乗るのを拒んでいる女の子がいた。何やら忘れ物をしたらしい。忘れ物をわかっていながら、バスに揺られ学校に向かうのは子ども心には確かにつらいだろう。いつもおとなしい恩熙ちゃんは、泣き叫ぶことはなく素直にバスのステップを上がっていった。

香港に向けて7時半に出発する恩熙ちゃんのバスを見送ると、峰涛さんは自宅に戻る。長女のいない3人で簡単な朝食を終えると、今度は次女を深圳市内の幼稚園に送り届ける。これが出勤前の日課だ。

大陸育ちの田さん夫妻は、長女の幼稚園で使われる広東語について、「速いと聞き取れない」というレベル。得意ではない。長女は普段の生活と学んでいる環境が違う「二重生活」が続く。2人の娘は今後も違う体制の教育の中で成長する。こうした点に将来の懸念はないかと尋ねてみたが、「特に心配はしていない」と言う。むしろ、今は通学時間が長いため子どもと触れ合う時間が減ってしまう点や、2つの幼稚園の休日が一致しないなどが大変だと話す。しかし、峰涛さんはにっこりほほ笑んでこう言う。

「毎日疲れますけど、幸せです」