筆者はこれまで、人生を懸けて騒音と戦ってきました(写真:freeangle / PIXTA)

前回、松山千春さんが遅延した航空機内で歌を披露したことを誘い水にして、日本中に流れるキンキラキンのテープ音についてちょっと意見を述べたところ、わずかの賛同とともに来た、すさまじい反感の嵐に「ああ、やっぱり」と思いました(哲学者怒る「日本の公共空間はうるさすぎだ」)。


この連載の記事一覧はこちら

とくに、タイトルに「哲学者」と書いてあったから、哲学の「て」の字も知らない人たちが、「哲学者ってもっと崇高なことをするはずだが……」という寝言に浮かされて、暴言を吐いている(哲学を知らない人ほど、哲学者を理想化する。ま、このことは次回以降にとっておきます)。

30年間「静かな街」について考えてきた

まず、「わがままなこのジジイ、バッカみたい」という(感じの)コメントを書いた人に対して言いますが、何を隠そう、私はこれでも30年間まじめにこの問題を考え、全身全霊で闘ってきたという「実績」の持ち主なのです。しかも、仲間もたくさんいる。ディーガンさんというイギリス人を会長にして、『静かな街を考える会』に参加し、その機関紙『AMENITY』は、1985年から続いていて、今度35号が出ます。そのあいだ、ありとあらゆる観点から日本中に流れる(主に)テープ音による、案内、注意、勧告、お願い放送の洪水を検討してきました。

だから、間違えてはいけませんが、私は音一般に反対しているのではなく、公共空間において、否応なく入って来る音に対して、(わずかではありますが)苦痛を感じる人がいるので、その場合どのように「共生」していったらいいか、というテーマを提起している。「不寛容社会」とはまったく異なります。大多数の者には何ともないけれど、ごく少数の者が苦痛を感じるとき、それを切り捨てていいのか、と言いかえれば、わかりやすいでしょう。

しかも、これは単なる感受性の問題ではなく「公共性」とは何かという問題であり、自他の人格をどうみなすか、あるいは、1つの世界を他人とどう住み分けるか、という問題です。その場合、われわれも一定の価値観に依存しており、それは、近代西洋型個人主義+価値の多様性を重んずる現代西洋思想(現代アメリカ思想?)と言っていいでしょう。ですから、この対極に全体主義あるいは何らかの画一主義が位置します。それぞれに人の信念と感受性は異なるのだから、それを可能な限り認める、とはいえ無際限に認めると、社会が成り立たないので、できるだけ認める方向で公共性を考える、と言いかえることができます。

私はこうした問題意識をもって、1985年に仲間と『静かさについて』(第三書館)という本を出し、翌1986年には『うるさい日本の私』(洋泉社)を出したところ、思わぬ反響で、朝日新聞の「天声人語」で取り上げられ、30種類くらいの新聞雑誌で取り上げられ、どんどん取材が舞い込み、この本はのちに新潮文庫に入りました(後、日経文庫、角川文庫)。

これで、私も仲間たちも祖国は変わるだろうと思っていたのですが、そうではなかった。ここでちょっと自己宣伝すると、私は、その後『うるさい日本の私、それから』(洋泉社、後『騒音文化論』と改題して講談社+α文庫に入り、さらに『日本人を〈半分〉降りる』と改題してちくま文庫に入る)、『〈対話〉のない社会』(PHP新書、その後、『〈思いやり〉という暴力』と改題してPHP文庫に入る)、『醜い日本の私』(新潮社、後、新潮文庫)、加賀野井秀一さんとの対談『うるさい日本の私たち』(講談社、その後講談社学術文庫に入る)。

そのあいだ、私はありとあらゆる「発音源」に足を踏み入れました。駅員と議論し、駅長室で駅長さんと議論し、JR東海の本社まで出かけていって抗議し、デパートの営業部まで乗り込んで、放送にクレームをつけ、小売店にもスーパーにも文句を言い(手紙を書き)、夏の江の島海岸の放送にも文句を言い、さらには、警察のパトカーにも抗議し、選挙カーを怒鳴りつけ、右翼の轟音を見過ごしている交番の警官にも抗議し、お花見などの注意放送をしている警官からマイクを奪い取りました。

駅に向かう途中にある保育園では、道路沿いの園庭で、保育士が保育園児に対して大音響のマイクを通してしゃべっている。ときどきそこを通過するときに耳をふさいで通りすぎていたのですが、ある日、20メートル四方に轟く音ですぐ前にいる20人ほどの園児に「みなさんは……」と語りかけているのを確認して、保育園の中に侵入して(いまは許されませんね)保育士に「子供を殺す気か!」と抗議し、銀座のデパートの浴衣ショーの轟音に抗議して車道で見学、数十メートルの渋滞を引き起こし、住宅地まで大音響で侵入してくる共産党の遊説カーに「やめろ!」と怒鳴り、やめないので車の前で「俺を轢け」とごろんと横になり、竿竹屋に5000円払って向こうに行ってもらい……とにかく、活動したのです(これらは、いま挙げた本にはみな書いてある)。

なお、こうした「過激な」行動は半分演技であって(じゃなきゃ、もたない)そのつど相手の反応を見て研究する。さらに、さまざまな学界(日本音響学界、サウンドスケープ協会)で発表し、NHKラジオやTBSラジオに出て訴え、おかげで「闘う哲学者」というニックネームまでいただいたくらいであり、当時はかなり「有名」だったのです。私が議論した相手は5000人を超えているでしょう(約30年間毎日ですから、それも1日数回ということもある)。そうして、闘争の合間、ありとあらゆる側面から、次の作戦を考え、敗戦の原因を考え……と、私はこの問題を日本で一番考えた男だという自信はあります。

トクする人に、ソンする人をさげすむ権利はない

今回の私の記事に対して批判的コメントを書いた人のうち、自分は何もしないで、ただ「バッカみたい」とせせら笑うような御仁に対しては、「じゃ、あなたは何をしましたか?」と聞きたい。自分で行動してからそう言ってもらいたい。本当にエスカレータの放送が必要だと思うなら、ないところ(例えば、成田空港や新宿駅の京王線ホーム)などはさぞ不快でしょうから、設置するように粘り強く抗議してほしい。そして、そうしないのなら、結局は「どうでもいい」のでしょうから、黙っていてほしい。

これも私の信条ですが、与えられた環境(現代日本の公共空間における音環境)において自分がトクしている(ソンしていない)人は、基本的に発言権がない。まして、ソンしている人を切り捨てたり、さげすむ権利はないということです。

さらに、こうした闘争を通じて私が心の底から得た知見とは、人は苦しければ身の危険すれすれまで活動するはずだということです。自分の子供がいじめで(間接的に)殺された親は必ず活動します。自分の子供の心臓手術のために街頭募金さえします。そうしない人は、本当は「苦しくない」ことを認めるべきだと大上段から切りたくなりますが、そうは言っても、われわれの仲間たちの多くは、「うるさい」と訴えることもできない。

なぜなら、例えば会社の仕事中にBGMをかけているとき、みんなが「うるさい」と感じないのに、そう言うと、排斥されるから、会社にいられなくなるからです。こうして、音で苦しむ人は、音と仲間外れという二重苦に苦しむのです。今回、私に反対する人たちの口調に含まれている「考えていない者の強さ」を確認して、「ああ、こういう人が、まったく罪の意識もなくてやんわりと人を殺すのだなあ」と思いました。

というのは、彼らでも、もし私が車椅子利用者であって、「日本の道路は車椅子では通れない、ヨーロッパではそうではないのに」と訴えたら、「じゃ、お前、ヨーロッパに行けよ!」とは言わないでしょう。あるいは、私が盲人で「日本の街は盲人に対する配慮がまるでない」と言ったとしたら、「なんと些末なことにこだわるのだ!」という反応は返さないと思うのです(返したら、ある意味であっぱれです、現代日本で自分を危険にさらしますから)。

なお、ちょっと脇道にそれると、今回も「そんな奴は山奥に行け」というコメントがありましたが(ああ、このセリフ、これまで何百回浴びせられたことでしょうか!)、このセリフもおかしいのですが、それはともかく、じつは、日本の「山奥」には。最も悪質な「防災行政無線」という名の凶器があるのですよ(これについては、『AMENITY』に何度も取り上げましたが、後日論ずることにします)。

善良な市民は「社会に公認された苦しみ」しかわからない

こういう「考えていないゆえに強い」人には、身体障碍者の苦しみは「わかる」、しかし、エスカレータの放送がうるさいという人の苦しみは「わからない」という線引きが見事なほどなされていて、どっぷり社会の保護色と溶け合っている。だから、社会的に公認された苦しみだけしか「わからない」のです。

私見では、彼らは「善良な市民」であり、振り込め詐欺にかかった老人には心から同情し、それを警告する放送を「うるさい」という人を「わがまま」と断罪する。ヒトラーの時代にヒトラーの演説に目を輝かせて酔いしれたのは、こういう善良な市民たちでした。ニーチェはそれを「畜群」と呼んだ。この翻訳語は過度に侮蔑的響きがありますが、もともとのドイツ語は“Herde”、すなわち山羊や羊など家畜のこと。牧人の管理のもと、何の疑いももたずに同じ色合いに溶け込んで、安心している生き物です。彼らは、安全が確保されることを至上命題にしていますから、安全なうちはしごく穏やかなのですが、これをかき乱す者(音がうるさいという者)が出てくるや否や、凶暴性を発揮して、メタメタに撲滅してしまう。

動物行動学者のコンラッド・ローレンツがおもしろい(恐ろしい)報告をしている。一見、平和そうな鳩やハツカネズミの群れに、1匹だけ臭いの違う異物を入れると、その異物をかみ殺すのみならず、その群れはヒステリー現象のようにめちゃくちゃになって全滅してしまうそうです。恐ろしいことですね。

思わぬ「反響」により、忘れかけていた闘志がムラムラと湧いてきましたので、これから、しばらくこのテーマを続けることにしましょう。