欧州挑戦、その始まりの地は北ロンドンだった。ヴェンゲル監督(左)に請われての入団。しかし、当時のガンナーズは文字通り異次元の領域で……。(C)REUTERS/AFLO

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 2001年夏、稲本潤一は9年半を過ごしたガンバ大阪に別れを告げ、21歳で欧州行きのチャンスを掴んだ。
 
 レンタルでの移籍先はなんと、プレミアリーグの強豪アーセナル。アーセン・ヴェンゲル監督自身がコンフェデレーションズ・カップでのプレーを見初め、ラブコールを送ったのだ。言うなれば相思相愛で、誰もが明るい展望を描いた。
 
 わたしは、アーセナルのプレシーズンキャンプに同行した。ユーレイルパスを駆使して、オーストリアのグラーツからベルギーのベベレンまで。日を重ねるにつれ、稲本の表情がこわばっていったのを思い出す。なかなかトップチーム同士のテストマッチで起用されず、取材しているこちらもフラストレーションが溜まった。
 
 現在、森岡亮太が所属するベベレンは当時2部で、アーセナルと人材供給の提携契約を結んだばかりだった。さっそく2名の若手選手が北ロンドンからレンタルで駆り出され、武者修行がスタート。その発表会見の場で、わたしはフランス人指揮官に尋ねた。
 
「イナモトもレンタル移籍させる可能性はありますか?」
 
 すると名将は一瞬にして不機嫌になり、「イナには期待している。そんな可能性などない!」と吐き捨てられた。どうしてあんなに怒ったのだろうか。英語の発音が拙かったからか。いまでも解せない。
 
 しかしながら、現実は稲本にとってあまりにも酷だった。いまだから話せることもあるだろう。
 
「簡単に言えば、レベルが違った。試合にはまったく出れずで、どんどん時間だけが経って、半年くらいした頃かな。もう諦めかけてる自分がおった。そんななか、唯一の拠り所になってたのがワールドカップ。次の年にワールドカップがあるからと、それだけをモチベーションに頑張ってましたね」
 ティエリ・アンリ、デニス・ベルカンプ、ロベール・ピレス、パトリック・ヴィエラ、フレデリック・リュングベリなど、2001-2002シーズンのガンナーズ(アーセナルの愛称)には錚々たるワールドクラスが集結していた。トレーニングからして異次元の領域だったという。
 
「あまりにもレベルが違いすぎた。球回しなんて経験したことがないレベルで、パスは速くて強くて、正確。まったく獲られへん。チームでレギュラーを狙うという感覚にはなれなかった。仲が良かったのは、ブラジル人のエドゥとかコロ・トゥーレ。ベンチメンバー同士でよく一緒にいましたね」
 
 チャンスがゼロだったわけではない。ワーシントンカップ(リーグカップ)では2試合の出場機会を得た。だがそのパフォ―マンスが、散々なものだったのだ。
 
「ヴェンゲルには、体重管理だけはしっかりやっておけと言われてました。体重が増え始めたりしてたんで。でもリーグカップでねぇ……。プレミアのチームと対戦した時に、中盤のセンターで出たんですけど、僕がボールをかっさらわれて、そこから失点。次の瞬間には(ポジションを)サイドに回されて、前半で替えられてしまった。あれは落ち込みましたね、久しぶりに。ホンマに」
 
 アーセナルはそのシーズン、プレミアリーグとFAカップのダブル(2冠)を達成する。旧ホームスタジアムのハイバリーで、恥ずかしそうに優勝トロフィーを掲げる稲本。複雑な心境だったはずだ。
 
「みんな俺のこと知ってんのかなって思ってた。それくらい場違いな感じですよね。優勝パレードにも参加したし、いま思うとすごく貴重な経験はしたんですけど、当時は正直、はよ終わってほしいと思ってました」
 
 試合勘やコンディションを不安視されたものの、失意のシーズンを終えたあと、稲本は2002年日韓ワールドカップで躍動する。ベルギー戦とロシア戦でゴールを決め、たちまち“時のひと”となるのだ。