当時の混乱は凄まじかった…江戸の町が焼け野原となった「明暦の大火」

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明暦3年に発生した「明暦の大火」は、江戸市街の3分の2を焼き尽くす大火事でした。風が吹き荒れる中、本郷丸山本妙寺で火事が発生し、あっという間に火は広がり、ついに江戸城の天守閣は焼失してしまいます。江戸城が混乱していく様子を、詳しくみてみると…。

江戸の町が焼け野原となった明暦の大火が起きたのは、明暦3(1657)年1月18日。

この大火は、日本橋一帯や江戸下町などを焼けつくし、翌日の午前2時すぎにようやくおさまったと思いきや…。19日の午前10時頃、またしも小石川伝通院表門下にある与力屋敷から火が出たのです。この日も、風が強かったため、あっという間に火は燃え広がり、近くの水戸家下屋敷、竹林門、牛込門、田安門の外堀をこえて、江戸城北丸へ。

竜巻で江戸城も犠牲に

江戸城といえば、家康・秀忠・家光の3代で50年ちょっとの年月をかけて築き上げた城です。その城も、一瞬にして火に包まれてしまい、さらに容赦なく大きな竜巻が発生したそう。天守は耐火建築になっていたので、通常ならば、絶対に燃えることはありませんでした。しかし、竜巻の発生で窓が開いてしまい、そこから火が内部に入ってしまったのです。これだけでも十分大惨事なのに、近くにあった弾薬庫も大爆発!

地獄のような光景が思い浮かびます。巨大な火柱がたち、江戸城の本丸・二丸・三丸も次々と焼け落ちていきます。将軍・家綱も、命からがら逃げて、西丸に避難したそうですが、一時は将軍の生死もわからず城内は大混乱でした。

火は、まだまだ猛威をふるいます。大名小路へと火が飛んで、大名屋敷の屋根瓦も凄まじい勢いで崩れたため、屋根瓦の下敷きになって死んでしまう人たちも多数。

夕方になり、またもや麹町5丁目の町屋から火があがり、桜田一帯の大名屋敷も焼けつくし、山王社、日比谷―芝、増上寺の一部まで燃やし、海岸べりでようやく火はとまるのです。

江戸城完成に至る年月そして苦労を思うと、さぞかし無念だったことでしょう。きっと、心にぽっかり穴があいたような感じになったはず。そんな心を表すかのように、無情なカラッ風が吹きつける江戸の町。そして、空には、5万から10万人といわれる死者の亡霊がさまようことに。明暦の大火は、繁栄した町・江戸を容赦なく焼き尽くし、被害はあまりに深刻で残酷なものでした。自然の威力は、本当に恐ろしいですね。

明暦の大火