あの夜酔っ払っていなかったら、今でも宇宙の仕事はしていない

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月面探査ローバー「SORATO(ソラト)」の打ち上げまで、半年を切った。HAKUTOのエンジニアたちは、最後の仕上げに余念がない。ソフトウェアのエンジニアとして、通信システムの要も担当する清水敏郎も、相乗りパートナーであるTeamIndusの拠点があるインドのバンガロールとの間を往復しながら、システムのチェックに当たっている。

その清水だが、実はいまでも別の会社「システム計画研究所/ISP」の社員であり、HAKUTOへは「出向」というかたちで、この人類初の月面探査レースGoogle Lunar XPRIZEに関わっている。

「もともと私はプロボノとして参加していました。勤務先の「システム計画研究所/ISP」が渋谷にあり、当時HAKUTOの前身であるホワイトレーベルスペース・ジャパンは隣駅の恵比寿にあったので、本業の仕事を終えた後に、午後8時頃から終電までこちらの仕事に熱中していました」

現在HAKUTOのエンジニアとしては最古参のひとりとなった清水だが、2013年2月に働き始めたときは、専門分野を生かして働くボランティアである、プロボノであったという。

「恵比寿には開発拠点と資金調達部門のふたつがあったのですが、開発拠点が東北大学に移ることになったので、休職して仙台に行こうと決心しました。ところが幸いなことに寛容な会社で、『出向』というかたちで働いてよいということになりました」
 
どうしてもHAKUTOでの仕事を続けたいという思いを叶え、2014年4月から東北大学の大学院、吉田和哉教授の研究室に移り、フルタイムで働くことになった清水だが、もともと子供の頃から宇宙に対して強い関心があったわけではない。

「4、5歳の頃から、身のまわりの変化するモノに興味があったのです。例えば、ゴジラの下敷き、温度が変わると色が変わって火を噴く。その変化はなぜ起こるか、それに興味がありました。あとは10円玉と100円玉の色はなぜ違うのだろうかとか」

このモノの変化や違いに対する疑問が、清水に自然科学への目を開かせた。それに輪をかけるように小学校1年生の頃、母親が愛読していた科学雑誌『Newton』 によって、本格的に物理に対する志向が明らかになる。

「『Newton』はグラフィックが素晴らしい雑誌で、ふだんから私が興味や疑問を持っていたことが、もう少し小難しく書いてあった。なかでも原子核、中性子と陽子の話が面白かった。モノが実はすべて同じものから構成されていて、見た目は違うものもすべてそれらの組み合わせだけで成り立っているというのが、私には非常に感動的でした」

この時点では、清水少年の興味はまだ宇宙には向かない。宇宙という項目が出てくるのは、小学校3年生の頃。とはいっても、星はなぜ動いているのか、どうして光り輝くのか、そういうような興味であったという。

「ロケットなどにはまったく興味はなく、星そのものがどうしてそこにあるのかということに関心がありましたね。つまり工学よりも理学に興味があった。そして高校生のときの恩師が九州大学の物理学科の出身だったので、私も同じ大学を選びました」

この大学時代に、清水は本格的に宇宙と出会うことになる。理学部物理学科に進んだ清水が専攻したのは、天体核物理。星の中で何が起きているかということを研究するものだった。

「星の寿命がどのくらいであるかを探るための実験装置をつくったりしていました。そのまま実験すると8000年くらいかかるのですが、装置を改良して1週間とかでやれるようにする。ただそうすると実験の結果にノイズが紛れてくる。そのノイズを除去する装置をつくっていました。世界でも1、2を争う装置です。もちろん私だけでやっていたわけではなく、それまでいろいろな人たちが10年くらいかけて改良してきたものですが」

大学院にも進み、さらに研究を続けた清水だが、ここで初めて本格的に取り組むようになった宇宙への興味は忘れがたく、就職はやはり宇宙に関連する会社を手当たり次第に受けたという。それで入社したのが、現在、籍を置き、「出向」させてもらっている「システム計画研究所/ISP」だ。

「ソフトウェアの会社で、宇宙開発に関連している部門もありました。例えばJAXAとやりとりして、地球観測衛星のデータ解析をするとか、宇宙関連の業務もやっていた。ところが、私は実際にはそういった部署に配属されることなく、入社してからは無線通信に関する部署でずっとやってきました。宇宙に行っても有線で通信するわけにはいかないので、無線技術も役に立つだろうと、10年以上、通信ソフトの開発をやっていた。とはいえ宇宙に対する思いはあいかわらず持っていて、30歳過ぎたらその無線通信の技術とかを持って宇宙関連の企業とタイアップできないかなと考えていました」

転機が訪れるのは、会社を辞める先輩社員の飲み会に参加して、自分もそろそろ転職の潮時かなと思いながら家に帰った夜のことだった。

「酔っ払ったまま帰って、フェイスブックを覗いていたら『月面探査メンバー募集』というページが目に入った。でも、その日は1月31日でちょうど募集締め切りの日だった。もう真夜中で締め切りは過ぎていたのですが、酔っ払った勢いで『仕事させてください』とメッセージを送ったら、『一度、話しませんか』と、代表の袴田武史さんからすぐに返事があったのです。あの日、酔っ払っていなかったら、たぶんメッセージは送っていなかったと思います」

当初は前述のようにプロボノとして関わることになった清水だが、HAKUTOでは一貫してソフトウェアの開発にあたっている。それは、これまで10年間、会社勤めでやってきていたことなので、すぐにそれが役立ったという。

「プロボノのメンバーは入れ替わりが激しく、3ヶ月後にいる人ってほとんどいないのです。全体として常時100人くらいはいるのですが、新陳代謝は激しく、1年いる人は1割に満たないのではないかと思います。私が入った当時はすでにソフトの開発をしていた人たちがいましたが、ちょうど辞めたりして、私はタイミングがよかった。すぐにソフトウェアのエンジニアとして働き出しました」

とはいえ、宇宙に関しては初心者にも等しかった清水、戸惑いも覚えたという。

「宇宙をやってきた人とソフトをやってきた人は、文化が違う。もともと航空宇宙の分野は機械を中心に発展してきたので、どんどん改良を重ねていくというよりも、最初にかっちり設計してつくっていくという手法が取られる。反対にソフトの開発は最初にざっくりと形をつくって、後はアップクレードしたりブラッシュアップしたりしていくのです」

それでも小さな頃から培ってきた変化に対する飽くなき探究心がうまく作用して、宇宙空間でのソフトウェアの開発にのめり込んでいった。

「地球でつくったソフトを宇宙に持っていくと動かないというケースがよくある。いちばんの原因は放射線の影響で、地球は磁気でバリアーされているのですが、月だと放射線の量が何百倍とか強かったりする。メモリーとかCPUなど計算装置として動くものに放射線が当たるとビット反転みたいなものが起こり、データが変化する。10とか15であった値が、138とか271になってしまう。解決法には、一旦リセットしてまた最初の状態からやり直す方法がとられます」

とにかく宇宙ではこの空間独特の現象が起こる。そこでのソフトウェアの開発というのは、常に問題を設定して、それをいかに解決していくかの連続だという。

「私たちのチームは社内で6人、社外まで合わせると全部で20〜30人が動いています。ソフトウェアの開発は、どう考えて何をなすべきかが重要で、課題設定をこちらから見つけていかなければいけない。まず月がどういう環境かを知り、そのなかでローバーがどう動くのかを考えたりする。例えば電力の供給が止まったらどうするかとか、あとは放射線を浴びたらどうするかとか、さまざまです。

危機的状況を想定して、それに対処するプログラムを考え、開発する。もちろん、対処方法は私たちが主軸になって考えるのですが、そういうことを常に考えてきたプロの方がいらっしゃる。餅は餅屋というか、そういう方たちの支援も仰ぎつつ、仕事を進めていくのも視野が広がって楽しかったですね」

ソフトウェアの開発でもとくに注力したのが、このミッションの要ともなる通信ソフトの開発だった。

「地球から月までは、XバンドとSバンドという、2.4ギガヘルツと8ギガヘルツ帯の電波で通信が可能です。ただ遠いので遅延があったり、普通の通信では起こらないことまで考慮したりしなければならない。38万キロ離れていて、光の速度だと片道1.3秒かかる。そういう秒単位の遅延が出ることは普通の通信装置ではあまりない。

日本からアメリカやフランスに通信するのでも、何百ミリ秒とか何十ミリ秒とか非常に短い時間できるので、着きましたか着いたよと互いに確認しあいながら通信できる。地球と月でそれをやろうとすると、その往復のやりとりにすごい時間がかかるんですね。送れる情報量がとても少なくなって、通常の何百分の一とか何千分の一とかそのくらいになってしまう。

それでもきちんと効率よくデータを転送できるような工夫を、パートナーでもあるKDDI総合研究所さんと一緒に考えています」

さて、清水はこのGoogle Lunar XPRIZEのミッションが終わったら、契約では元の会社に戻ることになっている。もちろん元の会社に戻れば、必ずしも宇宙に関連する仕事が待っているわけではない。

「今回のような場が与えられたことには非常に感謝しています。ひとつのミッションをやり遂げるのに、いろいろプロフェッショナルな人たちが関わってくる。理学で月の環境を詳しく知っている大学の先生がいらっしゃれば、宇宙で異常が発生したときどうすればいいかをわかっている人、あとはソフトウェアについて詳しい人もいる。いろいろな人と話していると次に何をやりたいかのアイディアも見えてくる。いちおう元の会社には戻るのですが、HAKUTOの母体でもあるispace社とタイアップしやすいような枠組みをつくって、また出向してきたいですね」

どうやら一度覚えた宇宙の味はなかなか忘れ難いようである。月面探査ローバー「SORATO(ソラト)」の出発までは、あと4か月だ。