戦前・戦中の防空演習や空襲警報は、いまや遠い昔の話ではなくなった。北朝鮮がミサイル発射を繰り返し、日本各地で避難訓練が行われ、ときにJアラートも発動されるようになったからである。

 とはいえ、ここでいつもの「戦前だ」「いや、戦前ではない」の退屈な応酬を繰り返しても意味はない。過去と現在を比較して、類似と差異の両面が浮かび上がるのは当たり前のことだ。要は、そこからわれわれが何を適切に学び取れるかが肝心なのである。

防空ソングと「防空思想」


Jアラートが日本中を駆け巡ったのは8月29日早朝のことだった ©共同通信社

 そこで今回は、戦前・戦中の防空ソングを集中的に取り上げてみたい。防空ソングとは、その名のとおり、防空をテーマにした歌のことをいう。そこには典型的な軍歌から、流行歌や音頭のたぐいまで含まれる。

 昭和戦前期、世界有数のレコード大国だった日本では、大きなニュースがあるごとに関連するレコードが量産された。

 制作者たちは、消費者に受けるネタを求めて時代をテーマにした。政府や軍部もそれに着目し、宣伝に利用しようとした。その結果生まれた数多の歌は、時代の雰囲気を伝える貴重な資料となっている。

 われわれは、防空ソングを通じて、当時の防空思想の発生と変化を読み取れるのである。

関東防空大演習と防空ソングの誕生

 防空ソングの起源は、1933年に求められる。同年8月、関東防空大演習が行われ、それに関連して、数多の防空ソングが作られたからである。


昭和8(1933)年8月9日に行われた「関東防空大演習」1日目を伝える東京朝日新聞一面(8月10日付夕刊)

 たしかに、それ以前にも、防空演習は大阪、名古屋、北九州で行われ、関連する歌も作られてはいた。だが、本格化したのは、やはり1933年と見なければならない。

 まだ危機感が薄かったらしく、同年中の防空ソングは、抽象的に「空を守れ」と訴えるものが多い。「護れ大空」「空の護り」「護れよ空を」「防空の歌」「敵機襲来!」「日本防空の歌」などの歌がそうで、具体的になにかをせよというよりも、問題意識の啓発に重点がおかれている。

 なかには「敵機襲来!」(長田幹彦作詞、村越国保作曲)のように、危機感を煽りすぎのものも目立つ。これなど太平洋戦争中であれば、むしろ発禁処分を受けただろう。

暗くる巷 渦巻く市民
見よ毒ガスに 必死の喘ぎ
阿鼻叫喚は 地獄の雅楽
栄華の誇 西京の夢ぞ

地上の勇に 誇ればとても
空軍なくば 両手をつかね
おびえつ泣きつ 炎に追はれ
死を待つ心地 思へよ市民

 国民の間で、まだまだ防空への関心は低かった。だが、関東防空大演習をきっかけに、市区町村に防護団・防護分団が組織され、国民は徐々に防空体制に組み込まれていくことになる。

ソレ撃つて 落して万歳!

 当時の防空は、軍による防空(軍防空)と、国民による防空(民防空)に区別された。大規模な防空演習は、軍の訓練だけではなく、国民を防空体制に組み込み、その生活を統制する目的もあった。

 そのために、国民に灯火管制、消防、防毒などさまざまな義務を課す防空法の制定が模索されたが、関係省庁間の調整が手間取り、1937年4月になってようやく公布された(施行は10月)。この前後より、防空ソングの内容も具体的になっていく。


東京・目黒の日の出高女での防空訓練(昭和15=1940年1月) ©共同通信社

 1936年の「防空音頭」(伊藤和夫作詞、大村能章作曲)は、音頭の拍子にあわせて、敵機を落としていくというユニークな防空ソングだ。やや滑稽だが、内容の面では、以前より能動的なものとなっている。

空の護りも軍民一致 ヤットヤットナ
まこと捧げて まこと捧げて 国の為
ソレ撃つて 落して万歳! 万歳!
どどんがどんと撃て どんと落せ

「身を守る防空」から「身を捧げる防空」へ

 日中戦争の勃発をはさみ、1939年4月には警防団令が施行され、防護団は消防組と統合されて警防団となった。翌年の「警防団歌」(大日本警防協会作詞、東京音楽学校作曲)では、やはり防空が強く訴えられている。

水と火を防ぎて我等 空襲を阻みて我等
ただ強く使命を奉じ 死を超えて誓ひ果さん
あゝ警防団 生命は軽し

 同じ防空でも、以前のそれとは大きく異なる。「身を守る防空」は、1930年代後半に「身を捧げる防空」にすり替えられたのである。


昭和8(1933)年8月9日の「関東防空大演習」の様子を伝える紙面(東京朝日新聞8月10日付夕刊より)。国民も訓練に動員された

本土空襲の現実を前に、防空ソングは有名無実化

 太平洋戦争が近づくと、致命的な空襲も現実味を帯びてきた。1941年10月、ラジオで放送された「なんだ空襲」(大木惇夫作詞、山田耕筰作曲)では、具体的に防空の手順が示された。

焼夷弾なら 馴れこの火の粉だよ
最初一秒 ぬれむしろ
かけてかぶせて 砂で消す
見ろよ早技どんなもんだ もんだ

 同時期に放送された「空襲なんぞ恐るべき」でも、国民は恐れずに、空襲に立ち向かうべきだとされた。空襲から逃れるべきという発想は、防空ソングには希薄だった。

 対米英開戦後も、防空ソングは増え続けた。「防空監視の歌」や「隣組防空群の歌」などがそれにあたる。防空ソングはいまや挙国一致の歌と成り果てた。


相馬御風(左)とサトウハチロー(右)も「防空ソング」を作詞した ©文藝春秋

 1942年の「防空監視の歌」(相馬御風作詞、古関裕而作曲)はこう宣言する。

同じ覚悟だ みな戦友だ
安心してくれ 兵隊さんよ
故郷の空は 鉄壁だ

 ただ、じっさいに本土空襲がはじまると、皮肉にも防空ソングは低調になっていった。報復を誓う「敵の炎」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)のような歌はむしろ例外的だった。

見よ無礼な姿 敵の翼をば
残らず折るぞ 近き日この仇を

 本土空襲の激しさを前にしたとき、「最初一秒ぬれむしろ、かけてかぶせて砂で消す」とはいかなかったのだろう。こうして肝心の場面になったとき、防空ソングは姿を消したのである。

防空という掛け声で、政府が必要以上のことをやらないかどうか

 防空ソングの歴史を簡単に振り返ると、(1)防空意識の啓発で発生→(2)防空体制への動員で増加→(3)現実との乖離で消滅、の3期にわけることができる。それはまた、民防空の成立と破綻の歴史でもあった。

 昨今のミサイル発射において、政府は「避難せよ」といっているのだから、「逃げずに戦え」と求めていた戦前・戦中と簡単に並べることはできない。

 ただ、防空という掛け声が、国民の組織化・統制に利用されたことも忘れてはなるまい。朝鮮や台湾向けの防空ソングさえあったのである。とすれば、今日も防空との名目で、政府が必要以上のことをやらないかどうか、チェックすることが求められよう。


2010年、北朝鮮の軍事パレード ©共同通信社

 「身を守る防空」と「身を捧げる防空」はまったく違う。防空を否定するあまり、「身を守る防空」まで否定してはならないし、かといって防空を肯定するあまり、「身を捧げる防空」まで丸呑みしてはならない。

 この違いを見極めるためにも、歴史は柔軟に参照されるべきだ。防空ソングの変遷は、そのためのヒントとなるはずである。

(辻田 真佐憲)