女性の結婚率は、35歳を境に急激に下降する。

東京で、まことしやかにささやかれる言葉だ。

他にも、身体の変化、実家の問題、将来への不安と、目を背けたいことが増えてくる年齢でもある。

だがしかし。そんな悲観を抱くことは一切なく、麗しき独身人生を謳歌する女がいた。

恭子、35歳。

彼女が歩けば、男たちは羨望の眼差しで振り返り、女たちは嫉妬する。

恭子は一体、何を考えているのか?

外資系ラグジュアリーブランドで働く部下の周平は、恭子にそっと想いを寄せ、それに気づいてしまった元彼女・瑠璃子は気が気でない。

同時に独身仲間だったはずの同僚・理奈も敵対心を抱くようになっていく。

そんな中、専業主婦のなつみは、恭子との格の差を思い知らされた一件以来、もやもやとした想いと闘っていた。




とある土曜日。私は、天王洲アイルのタワーマンションの一室で開催されるマクロビ料理教室に参加していた。

新卒で働いていた頃の会社の先輩が、結婚後独立して開いた料理教室だ。

「皆さん、こちらは、私の元後輩のなつみちゃんです」

今日初めて参加した私のことを、先輩が他の参加者たちに紹介する。

教室の集客はほとんどが口コミで、生徒の大半がラグジュアリー業界の出身者と聞いている。

レッスンを終えて帰り支度をしていると、後ろから軽く肩を叩かれた。

「なつみさん。先生に聞いたけど、恭子と知り合いなんですってね」

そう尋ねた女性が小脇に抱えているのは、恭子が勤めるブランドの鞄だと一目でわかるものだ。

「恭子なら元同期だけど…」

彼女の前のめりな様子に、少し怪訝な顔をしてしまった。

彼女の名は理奈。恭子の同僚だ。先輩のマンションから駅までの道のりを歩きながら、私たちは話をした。

「レッスン中のなつみさんの手際の良さ、さすが主婦って感じだった!お料理上手で、旦那さんは幸せ者ね!」

彼女の勢いに押されながら、そんなことないわよ、と答えると、理奈は大きく首を横に振る。

「やっぱり、男は胃袋で掴めって言うものね!でもね、知ってる?恭子なんてお料理全く出来ないでしょう?だからこの間の食事会でも男性受けがとにかく悪くって…」

眉をひそめながら面白おかしそうに語っている。


恭子は本当に料理が出来ないのか?


私は、恭子が食事会に行くということに心底驚いていた。格好つけていても結局彼女も普通の女なんだと思うと、自然に口元が緩む。

それにしても、理奈は恭子のことをあまり知らないようだ。

恭子といえば、同期の間でも評判の料理の腕前なのだ。20代の頃、私は何度か彼女のマンションに招かれたことがある。

ここはレストランかと見紛うほどの素晴らしいメニューがずらりとテーブルに並び、さらにそれぞれの料理に合わせたワインペアリングまで提案して振舞ってくれた。




意外な一面には驚かされたが「やっぱり恭子さんに不可能という文字はない」と同期同士で囁き合ったものだ。

しかし敢えて食事会で料理上手を語らないのは、媚びない恭子らしい。

そんなこともつゆ知らず、理奈は話を続けている。

「なつみさんはいいなあ。結婚してお子さんまでいて、幸せで。私も早く結婚したいなあ。ああ、羨ましい…」

理奈とは品川駅の改札で別れた。なんだか痛々しい人だったけれど、私は少しほっとしていた。

彼女が言うように、やっぱり私の生き方は、人から見たら羨ましいものなのだ。そのことが確認できたからだ。

そもそも、早く結婚して子供に恵まれた私の方が、どう考えても勝っている。それにひきかえ恭子は、婚活に必死な女友達と連れ立って食事会に通っているのだ。

私たちの勝ち負けが逆転したのは、トゥールームスで過ごした、たった一夜限りのこと。

自分に強く言い聞かせたが、なぜか靄がかかったように心が晴れない。

あの晩、恭子はまるで栄光のトロフィーを手にした女王のように輝いていた。


恭子の麗しき私生活と、私の平凡な日常生活


家で夕飯の支度をしていても、恭子のことがやっぱり頭から離れなかった。鍋の火加減を横目で気にしながら、スマホで久しぶりにFacebookを開く。

恭子はめったなことでは自ら投稿をしない。そのため、彼女のタイムラインは友達によってタグ付けされた写真で埋められている。

ここ1、2年のバカンスの写真。シチリアのタオルミーナに、スペインのメノルカ島やギリシャのミコノス島。

地中海やエーゲ海の美しさに負けず劣らず、恭子は自然体で輝いている。

それに比べて私のタイムラインは…。

妊娠と出産の報告以降は、愛する息子の写真ばかりをひたすら載せてきた。ほんの小さな変化に感動した成長の過程、卒園式で涙したこと、入学式の正門前での家族写真-。

完璧な人生の記録だと思っていたのに、こうして並べてみると、地中海に比べたらなんとも取るに足らない日常に見えるし、エーゲ海に比べたら色あせてさえ見えてくる。

ううん、そんなはずはない、私の方が勝っているんだから…。

「ママ、なんか焦げ臭くない?お鍋、大丈夫?」

夫の声にハッと我に帰り、私は慌ててスマホ画面を閉じた。



そんな矢先だった、恭子から週末のランチに誘われたのは。

約束をした店は、東麻布の『スブリム』。フランス料理に北欧テイストをミックスさせた、モダンフレンチの人気店だ。


楽しそうな人生を送る恭子に、なつみの嫉妬心が止まらない


子供を持つことが、本当の幸せ…?


恭子は、今日は車で来ているからと言って、ワインではなく炭酸水を飲みながら、嬉しそうに話をしている。

「そうそう、元同期メンバーで今年はヨーロッパ旅行に行こうって話してるのよ」

その一言がまた、私を小さく傷つける。子供のいる私がその旅行に行けるはずはないが、かといって全く声をかけられないというのは何より虚しいのだ。

思わず私は言い放った。

「恭子ってさ…なんだか人生楽しそうでいいよね」

ほんの嫌味のつもりだったが、恭子は褒め言葉だと受け取ったのだろう、ありがとうと言ってにこにこと微笑んでいる。

恭子が美しく笑えば笑うほど、私の心は醜く歪んでいく。

気がつくと、心の底に潜んでいた驚くほど邪悪な感情が、とびきり意地悪な言葉となって、次から次へと口から飛び出していった。

「友達と旅行には行けなくなるけど、子供って本当にいいわよ。子供を持つこと以上の幸せがこの世にあるのかしら」

「もちろん大変なことがたくさんあるけど、だからこそ、子供を持って初めて一人前になれた気がするわ」

「私たちの年齢だと出産のリミットもあるでしょう。恭子、結婚もそろそろ急いだら?」

しかし、何を言っても彼女は動じることなく、穏やかな表情を崩さない。

そして突然神妙な面持ちになって、呟いた。

「でも、難しいわね。子供がいたら、今の働き方はできなくなるし、手に入れた仕事のポジションもいつか手放さなくてはならないかもしれないわね」

そして息をふうっと吐いてから、続けた。

「結局女は、何か一つ幸せを手に入れるのに、他の幸せを一つ手放さなくてはいけないかもしれないね」

恭子の言葉に私は絶句し、何も答えられなかった。彼女の言うことが余りに的を射ていたから-。



「なつみ。車で途中まで送っていくわね」




サングラスをかけ、風に髪をなびかせながらハンドルを切る恭子は、女の私から見ても、本当に格好良くて、そして幸福そうだ。

-結局、恭子には、少しも叶わない。12年前に、本社勤務の座を奪われた日からずっと。

彼女の横顔に思わず見とれそうになりながら、私は素直に敗北を認めた。

家をあけてきた罪滅ぼしに、夫と息子にせめてお土産でも買っていこう。私は六本木ヒルズで降ろしてもらうことにした。

けやき坂に到着し、車のドアを開ける寸前に、ふと気になっていた疑問を口にする。

「そういえば、この間バーで会った部下の子、周平君だっけ?あの子って恭子のこと、好きなの?」

すると恭子は突然、私の手首を少し強く掴んで、瞳をじっと覗き込んだ。

「そう思う?実は私ね…」

そこまで言いかけたが、すぐにはっと我に帰ったようだ。

「ごめん、何でもない。ショッピング、楽しんでね」

私にひらひらと手を降る彼女は、すっかりいつもの「恭子さん」の顔に戻っている。

一体、恭子は何を言おうとしたんだろう。

少し取り乱したようにも見えた。最後の表情が気にかかりながらも、私は息子と夫が待つ日常へ帰るため、溢れかえる人ごみの中に身を滑り込ませるのだった。

▶Next:9月11日月曜更新予定
食事会で恭子への勝利を確信したはずの同僚・理奈。その結末や、いかに?