飛び級で昇格したG大阪ユースでは10番を背負い、中盤の核として活躍。誰もが将来を嘱望するホープだった。写真:森田将義

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[サッカーダイジェスト2017年2月9日号より加筆・修正]
 
 セレクションを受ける前から、井手口にはガンバ大阪に対する知識があった。

 というのも、彼が小学6年生だった2008年にG大阪はアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を初制覇。年末のクラブワールドカップを戦うチームをテレビで観ていたからだ。当時FWだった井手口の目に、そのスタイルは魅力的に映ったようで、「攻撃的で楽しいサッカーをするチーム」という印象を抱いていた。

 それもあって、「ガンバなら」とチャレンジを決めたが、セレクション当日はあまりの人の多さに驚き、かつ緊張からだろう。自分らしいプレーがまったくできなかった。

 だが、本人の手応えのなさに反して、選考にあたったアカデミーのスタッフ全員が満場一致でその才能に太鼓判を押し、G大阪からは最終選考を待たずして早々と合格を告げられた。当時、ジュニアユースの監督を務めていた鴨川幸司が振り返る。

「1次の時点でも明らかに他とは才能が違ったので、2次以降はもう見なくてもいいだろうと、合格を決めました。当時から今の彼のように、シンプルで確実なプレーをするけれど、どんどん相手の嫌なところも突いていける選手でしたね。基本的な技術も高かったのですが、最近の子たちにありがちなテクニックをひけらかすようなところはなく、堅実にプレーしていた。それもあって、『サッカーを知っているな』というのが第一印象でした」

 偶然にもこの「サッカーを知っている」というフレーズは、小学生時代の恩師である加藤も、そして井手口のジュニアユース時代のコーチであり、ユース時代の監督でもある梅津博徳も口にしている。
 
 中学1年生で、身体の大きな上級生に物怖じせず向かっていく井手口の姿に、梅津は驚きを覚えたという。
 
「中学生年代は体格差もあるので、身体の小さな選手は特にコンタクトプレーを嫌がるものですが、陽介は1年生の頃から3年生にもガツガツぶつかっていました。外国のチームとの試合では、自分からわざと当たりにいっているようなところもありましたが、それはおそらくサッカーを知っているから。コンタクトプレーは、相手に当たられるより自分から当たりにいったほうが痛くないし、結果的に優位に立てることが多いんです。陽介はそれを教える前から、そういうプレーをしていました。決してオシャレで華麗なプレーをするわけではないけれど、とにかく堅実でしたね。それもあってのボランチ転向だったと思います」
 梅津の言葉にもあるように、井手口がボランチを主戦場にするようになったのはG大阪ジュニアユースに加入してからだ。中学1年生ながらメンバー入りした8月のクラブユース選手権(U―15)では、チーム事情から、また前線でのキープ力とシュートの巧さを買われてFWを務めたが、2年になると完全にボランチとして定着した。

 当時の鴨川の井手口評はこうだ。

「過去には『めちゃめちゃ巧いけど守備をしない』選手が多かったなかで、陽介は根本的に守備が嫌いではなかったんでしょうね。攻守の切り替え時にサボることはまずなかった。勘がいいというか、大抵の選手は指導者に『戻れ!』と言われて慌てて帰陣しますが、陽介はこっちが言う前に戻れていたし、パスコースの切り方も、教えるまでもなく自分の感覚でできていました。

 だから、当時はどちらかというと攻撃面の指示が多かったように思います。彼の場合は捌きが巧く、ボールを失わないから安定したプレーができるんですが、そのあとですよね。特にボランチをやり始めた頃は、前にスペースがあっても足もとでのプレーを選択しがちだったので、もっとスペースに飛び出せと、口酸っぱく言った記憶があります」