油山カメリアーズ時代。加藤監督は、「楽しいと思う気持ちと負けず嫌いの性格が合わさると最強だった」と振り返る。写真提供:井手口亜紀子

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[サッカーダイジェスト2017年2月9日号より加筆・修正]
 
 小学校時代の恩師と、G大阪ユースの指導者たちが口を揃えて、「サッカーを知っている」と評したのは、偶然ではないだろう。井手口陽介のプレーは、まだ20歳とは思えないほど成熟している。だが、彼を突き動かすのは「楽しいか、楽しくないか」、その直感だけだ。

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 サッカーに対して、深く考えることはまずない。厳密には、考えることがあまり好きではないと言うべきか。時に逆境にぶち当たっても、なにかしらの選択を迫られても。その時々で彼の基準になるのは、「楽しいか、楽しくないか」。子どもの頃からその直感だけに従って、ボールを蹴ってきた。

 もっとも、プロの世界ではそれだけではダメだという考えもないわけではない。自分の意に反していても、場合によっては「受け入れる」ことも必要だと、感じ始めている。だが、それでも井手口陽介は「楽しくなければサッカーじゃない」と言う。

 ガンバ大阪でボランチの定位置を掴もうと、リオデジャネイロ五輪の代表メンバーに最年少で選ばれようと、ルヴァンカップのニューヒーロー賞やJリーグのベストヤングプレーヤー賞を手にしても、さらには日本代表に選ばれても、そこに「楽しい」という感覚が伴わなければ、どんな栄誉も素直には喜べない。

 2016年11月、20歳にして初めて日本代表に選出され、その活動を終えてクラブに戻ってきた時の言葉が印象深い。

「初めての代表は……まったく楽しくなかった。試合も外から見ていただけでしたしね。早くこっちに帰ってきてサッカーをしたかった」

 上辺を取り繕うことがない、井手口らしい言葉だった。 
 
 地元・福岡で、サッカーをしていた8歳上と5歳上のふたりの兄のプレーを見て育ったからだろう。物心がついた頃には、ごく自然にボールを蹴っていた。
 
 当時は「ただただボールを蹴るのが楽しかった」(井手口)ようで、母・亜紀子によれば、ふたりの兄に習うというより、兄のプレーを見て、自分がやりたいことを好きなようにやっていたという。

「小さな頃から活発で、ニコニコとよく笑う優しい子でした。陽介を買い物に連れて出掛けると、自分の分だけではなく、必ずふたりのお兄ちゃんのお菓子も選んでいましたしね。普段はそこまで主張しないのに、自分が『やりたい』と思ったことには気持ちを表に出して、そこに向かっていくようなところがありました。間違いなく彼にとってのサッカーは、何にも勝る『やりたいこと』だったと思います」

 サッカーに対する欲は、兄たちとは比べものにならないくらい強かった。彼が小学1年生の時には日本で初めてワールドカップ(2002年の日韓大会)が開催されたが、ブラジル代表FWロナウドの大ファンだった井手口は、テレビに噛り付いて試合を観戦したという。しかも、それだけでは飽き足らず、ブラジル戦は必ず録画し、気に入ったシーンを何度も巻き戻してチェックする熱の入れようだった。

「毎日、日が暮れるまで外でボールを蹴って、家に帰るとひたすらサッカーのビデオを観ていました。ふたりの兄がサッカー以外のことに興味を惹かれるようになっても、陽介はサッカーだけでしたね。だから、兄弟の中でもボール扱いは一番巧かった。できないことは必ずできるようになるまでチャレンジしたし、身体の大きなお兄ちゃんたちを相手にしてもまったく怖がらず、むしろ思い切りぶつかっていって、自分がどのくらいできるのかを試しているようなところがありました」(亜紀子)

 小学4年生になると、「チームでサッカーをしたほうが、試合もできるし楽しいよ」という母の勧めで、中央FCに加入(5年生の時にチーム名がストリートSCに変更)。ここで2年間プレーしたが、6年生になると、より技術練習に力を入れていた油山カメリアーズへ。すると、サッカーの楽しさが倍増した。