東京に生きる、結婚しない女性のストーリー。今回の主人公は、医療関連会社で働く、中村貴美子(32歳)。

「あのね、こんなことは言いたくないのだけれど、定時になったということはわかっている。でもね、デスクでメイク直しをするのは、女性としてやめたほうがいいと思うの。あなたはどう思う?」

転職して半年になる新入社員の香奈が、ムッとした顔でにらみ、ガチャガチャと音を立て、マスカラとアイライナーを乱暴にポーチにしまい、無言で席を立った。すみませんでした、という言葉を期待していた貴美子は、8歳も年下の後輩に無視され、拍子抜けしてしまった。女性社員たるもの、いつも笑顔で場を和ませ、先輩に対して敬意を払うのが常識ではないのか。
入社当初、おとなしかった香奈が、会社に慣れるにつれて態度が変わっていった。業務中に菓子をつまみ食いし、化粧崩れを防止するミストを顔に吹き付け、ランチ時間にはデスクにカレーを広げた。香奈が入社するまで、デスクは仕事をする場という社員の共通認識があった。
しかし、香奈が入ってからは、オフィス全体の雰囲気がゆるみ、私語が増えた。香奈の奔放なふるまいに対し、上役たちは注意するどころか目を細めていた。その態度に対しても、貴美子は我慢ならず、部長に直訴を繰り返した。
「中村さん、社員50人の小さな会社なんだから、目をつぶって受け入れてあげなよ。僕は彼女、ユニークだと思うけどな」。そう言われてしまうと、何も言い返せなかった。

貴美子がこの会社に就職し、大切に扱われている裏事情とは……?

東京都の医師会の重鎮でもある父親と10歳年上の兄の威光で入社した貴美子に対し、誰もが一目置いていた。しかし、口が悪い同期入社の敏明は違った。“立派なオツボネだ”とか“若さと美貌への嫉妬だな”など軽口を叩いて来る。背が高く、笑顔にあどけなさが残る敏明に対し、かつて貴美子は密かな恋心を抱いていたが、30歳になる前に、クライアントである年上の女性医師と結婚し、今では子煩悩な2児の父になってしまった。
香奈が入社してから、敏明に年齢のことを揶揄される回数が増えた。そのたびに、「そんなことはないですよ」と笑顔でかわしてきた。女性への年齢差別をやりすごす方法は笑うことのみだ。正当に反論すれば自分がみじめになるだけだ。

貴美子はずっと優等生だった。入社以来、一度のミスもなく、正確に仕事をし、礼儀正しく、分をわきまえて行動してきた。その評価は、20代後半までの“女の子”の時代は高かったが、30歳を超え“オバサン”の時代になった今では、同じことをしていても、柔軟性がないとか、口うるさいなど陰で言われるようになる。そんな声を聞くたびに、背筋をスッと伸ばし、口角をキュッと上げて清楚に微笑んでやり過ごしてきた。

貴美子が会社を出ると19時になっていた。週末の東銀座の街は輝いており、立ち飲みやレストランには客が溢れていた。10年前に比べ、ひとりで行きやすいお店も増えたが、女の子ひとりで食事などするものではない、という親の教えもあり、レストランやバーはもちろん、喫茶店さえも立ち寄ったことはなかった。
混雑する都営地下鉄に乗り、席を確保した貴美子は、周囲の人のマナーの悪さにうんざりした。大きなリュックを背負う大学生、ゲーム音を盛大にイヤフォンから音漏れさせている若者、隣の席に座っている女子高校生はチョコレートを食べている……見たくないのについ見てしまうのだ。貴美子は両手をグッと握りしめ、自宅のある駅に着くまでの20分間、固く目を閉じていた。

母の期待や愛情に応えることが、生きがいになっている女性は少なくない。

運命の男と出会ったのはお見合いだった。医師との結婚をゴリ押しする母との葛藤の果てに見えた世界は?〜その2〜に続きます。