痛快な勝利に「アンチ自分たちのサッカー論者」が勢いづくなか、それでもやはり「自分たちのサッカー」を探す旅はつづく。
それでも「自分たちのサッカー」を探す旅はつづく!

今、こんなことを言うとまたサッカー界隈から槍が飛んできそうですが、そこは恐れずに言おうと思います。31日に日本代表がワールドカップ出場を決めた戦いぶりについてです。この試合自体は大変よいものだったと思いますが、よい試合だっただけに受け止め方には難があるように思います。とりわけ気になるのは、この試合を評する意見で多く見られた「ようやく自分たちのサッカーという呪縛から解き放たれた」とするもの、「アンチ自分たちのサッカー論」です。

アンチ自分たちのサッカー論者からは、ハリルホジッチ監督の采配あるいは手腕というものは非常に高く評価されているように見受けられます。その多くはオーストラリア戦の内容を絶賛し、プライベートな問題を承知しつつもハリル氏の続投を強く望んでいました。そして、試合翌日に行なわれた会見で続投が宣言されたとき、喜びの声をあげていました。まぁ、大変気持ちいい勝利でしたので、そういう方向性になるのは当然かと思います。僕自身も続投で異論はありません。

ただ、あの試合をあまりに持ち上げすぎるのはどうかなと思います。特に「アンチ自分たちのサッカー」を掲げて、それとセットで考えていくというのは問題があるだろうと。短期的には真であることが長期的にはそうでないということも、短期的には失敗であることが長期的には成功への途上であることも、世の中には多いものです。僕は「アンチ自分たちのサッカー論」の多くは目先の話でしかなく、それに踊らされてはいけないと思っています。

そもそもこうした論調が生まれた背景というのは、2014年ブラジルワールドカップにつながっていくザックJAPANの戦いぶりへの不満・反発なのだろうと思います。本田△圭佑さんらを中心とした当時の代表メンバー主力が頻繁にクチにした「自分たちのサッカー」という言葉。そして、最終的にグループリーグ敗退となった結末。彼らの戦いぶりや試合内容に対する不満と、真の意味での「自分たちのサッカー」を追求する行為をゴッチャにし、いっしょくたに反発しているのが多くの「アンチ自分たちのサッカー論者」であろうと僕は思うわけです。

アンチ自分たちのサッカー論者における「自分たちのサッカー」の定義というものは、極めて狭義に言えば「パスを中心としたポゼッションサッカー」のことであり、広義に言えば「自分たちがやりたいことを優先するサッカー」です。一番狭い意味で使っている人は、ボールを持ってもっちゃらもっちゃらコネくるあのやり方が嫌いなのでしょうし、少し広い意味で言っている人は「誰が相手でも同じやり方を押し通そうとする」融通の利かなさを言っているのでしょう。あえて強く言うなら「バカである」と。

勝利を一番上に置くという観点では、理解のできる不満ではあります。コッチはパスにこだわっていても、相手が頭を超すハイパントでも入れてきたら噛み合わないわけですし、スペインやブラジルを相手に「ボールを操る勝負」を仕掛けることの分の悪さは否めません。そもそも格上相手にボール保持などできないんだから弱者のサッカーをやれという苛立ちも当然生まれるでしょう。「相手がある勝負」で相手を見ないで戦うのは、麻雀で他人の捨て牌を見ないようなもの。それは決して有利なことではない。

その意味では、このオーストラリア戦というのは「アンチ自分たちのサッカー論者」にとっては痛快極まりないものだったはずです。オーストラリアはかつての日本を見るようにパスとボール保持にこだわり、そのわりには決定的なチャンスを作れず、むしろゴチャゴチャと渋滞していました。そこから何度もボールを奪い取り、カウンターでゴールを脅かしたのです。気・持・ち・い・い!「自分たちのサッカー」の象徴である本田△・香川がベンチを温めていたことも含めて、まさに「決別」と言ってもいいような戦いぶりでした。



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しかし、僕にはこの試合はいい試合、まだまだ上積みがある戦いではあるけれども、本質的には「理想なき好結果」であると思えます。

オーストラリアは本来の強みであろう肉体の強さや体格面での優位を活かしてきませんでした。さして上手くもない足下のボールまわしにこだわり、チカラを出し切れなかった。それは勝負という意味では愚かだったかもしれませんが「意志」はある戦いぶりでした。こういうことをやりたいという考えがあってやっていることであり、いずれ何らかの答えを得るだろう行為です。それは「やっぱこれはダメだな」という結論かもしれませんが、理想を追求する一歩だろうと思います。ひるがえって日本はどうだったのかと。

勝負事には2つのアプローチがあります。自分たちが上回って勝つか、相手を自分たちより下回らせて勝つか、そのふたつです。野球でたとえるならば、相手がとらえられないような好球でねじ伏せるのが「上回って勝つ」であり、相手の狙いを外して打ち損じや見送りを誘うのが「相手を下回らせて勝つ」にあたります。どちらも結果として勝利を手にするわけですが、究極のところで目指すべきは「上回って勝つ」です。

何故かと言えば、「相手を下回らせる行為」というのはお互いに際限なく繰り出すことができるからです。ストレートで仕留めるぞ⇒豪快なスイングで痛打してやる⇒では変化球で空振りを取ろう⇒おっとそれは読んでいたので見てから対応しますね⇒ならばボール球で打ち損じを誘おう⇒じっくり見て手を出しませーん⇒ならばやっぱり快速球で空振りじゃ⇒じゃあやっぱり豪快なスイングで痛打…とお互いが対策を繰り出しながらグルグルとめぐっていくのです。ジャンケンでグー・チョキ・パーがにらみ合うようなものです。

もちろんそれは大切なことです。相手がグーを出してくるとわかっているならパーを出さないのはもったいない。世界のトップオブトップでは、そうした攻防を試合の中で繰り広げてさえいます。システム変更とそれに対応するシステム再変更、選手交代による互いの狙いのつぶし合い。その素早さ・滑らかさというのは見事です。万能の仕組みでも見つからない限り、対策合戦になるのは当然であり、その流れに乗っかれなければ弱みを突かれて負けるのです。とても「自分たちのサッカー」にだけ拘泥して、打ち破れるようなものではありません。

ただ、その対策合戦というのは勝負の極みではないわけです。

対策が対策を呼び、お互いが果てしなき対策合戦で膠着したとき、最後の最後に勝負をつけるのは相手を上回る「自分たちのサッカー」でしかないのです。それは得意技と言ってもいいし、型と言ってもいい。哲学と言ってもいい。究極の矛に対する対策としての究極の盾が出てきたとき、どちらが勝つかと言えば、より強く、より純粋なほうなのです。それは練習によって一朝一夕に作られる程度のものではなく、身体的な特徴、生まれ育つ環境、趣味趣向、教育、倫理観、人生観といったさまざまな要因、ひいては「国」がベースとなるものです。

大人になってから身につけるのではなく、子どもの頃から叩き込まれ、血肉となったものだけが勝負の極みにおいて雌雄を決する強みになるのです。自分たちの身体にマッチして、自分たちが好む「型」すなわち「自分たちのサッカー」なくして、勝負の極みで戦うことなど叶わない。まして世界の頂点に立つことなど未来永劫ないのです。ブラジルやスペインやドイツはただただ対策が上手いカメレオン野郎なわけではないでしょう。理想があり、哲学がなければ「らしさ」も生まれないのです。

たとえば相撲には日本人が長い時間をかけてたどりついた「横綱相撲」という理想があります。ハッキリとした決まりがあるわけではないですが、相手のチカラを受け止めて、妙な小技は使わず、過剰に突き押しにこだわることはなく、胸を合わせて、おごそかに寄る、あるいは美しく投げる。正攻法やや受け身の相撲。ただ勝てばいいのではなく、理想としてはこうであるという志がちゃんとあるのです。デブとデブが体当たりするゲームなのですから、ヒラリとかわすほうがいいという考えはもちろんあるでしょう。しかし、日本の相撲では、そうはしないのだという志があるのです。勝ち負けではどちらが正解ということはありませんが、我々はコチラをよりよいものだと考えるという意志がある。

今、オーストラリア戦で相手の狙いを潰して勝ったのは、対策合戦の一丁目でしかありません。そっちがそうくるならこっちはこうだという対策の対策に対して、対策の対策の対策を繰り出す、そういうループのほんの入り口です。それは当然やるべき工程であり、その意味では僕も必要なことだと思います。しかし、その向こう側にある勝負の極めのことを忘れ、対策が上手くハマった試合に満足してはいけない。いつかどこかで、「自分たちのサッカー」が必要になるときのことを、つねに思い描いていないといけない。

キャプテン長谷部誠は試合後のコメントで「型にはまらない戦いができている。対戦相手がどう出てくるかに合わせて臨機応変に、柔軟に対応していくサッカーだというのがはっきりしてきた」というような話をしていました。確かに柔軟性は必要ではあるけれども、相手がもっと柔軟だったら対策合戦のなかで空中分解してしまう程度の危うい思想です。対策をしてもままならない強者…「わかっていても打てないボール」が飛んできたら、「柔軟性」では途端に打つ手がなくなるのです。

何が好きで、何が得意で、何を理想とするのか。

それを突きつめた先にある、自分たちが最高のチカラを発揮できる型。

すなわち「自分たちのサッカー」。

それを持たない柔軟性にはいずれ限界が訪れるでしょう。


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「自分たちのサッカー」を見つけ出す旅はまだ始まったばかり。相撲や野球や体操といった、長い歴史を持ち、日本がトップオブトップの一角を占める競技のように「自分たちの●●」を持つに至るのは簡単ではありません。100年単位の仕事になるでしょう。100年経ってもおぼろげかもしれない。そんな100年単位の仕事だからこそ、つねに心に留めておかなければならないのです。日本サッカーは、何が好きで、何が得意で、何を理想とするのかということを。

かつて代表を率いていたオシム氏が掲げた「日本サッカーの日本化」というテーマは、まさにそれを探そうじゃないかという投げかけでした。今この勝利に酔うなかでも、そのテーマを心に置いておかなくてはいけない。長い道のりにおいて、ハリルホジッチ監督がもたらしたオーストラリア戦の勝利というのは、「俺はこんなやり方も知っているけど、どう思う?」という例示でしかないこと、これから日本が何を選ぶかを自分で見つけないといけないこと、そのことを忘れてはいけないはずです。

「こう勝ちたい」という志がなければ、たどりつけない極みが勝負にはあるのですから。日本サッカーにはまだその志がないことを忘れて目先の勝利に浮かれたり、「ハリルホジッチのやり方」をただ受け入れるような「アンチ自分たちのサッカー論」は、勝負の極みには届かない道です。一見近道のようで、最後に行き止まりが待っている道です。

ハリルホジッチ氏もそういったテーマに挑むために資料を作ったりしているそうですが、実りは多くないだろうと思います。それを予感させるのが、「首位でありながら非難される」ことに対する怒りです。オーストラリア戦を前にして一部報道に出た解任論は、確かに言いがかりです。予選は結果がすべてなのに、首位で文句が出るのは腹立たしいでしょう。しかし、「日本サッカーの日本化」が真のテーマであると位置づけるならば、当然あり得る事態でもあります。そのテーマの実現にあたっては、「勝てば何でもいいというわけではない」からです。

根っこの部分に「勝てば何でもいいだろう」という思想がある人と一緒に理想を見つけるのは難しいだろうなと、僕は思います。ただ与えられるものを消化するだけではなく、この例示を受けて自ら模索していかないといけないだろうなと。ポゼッションとかリアクションとか狭い意味ではなく、何を日本サッカーの理想とするのか。ハリルホジッチ氏のスタンスが理想よりも現実に寄ったものであるだけに、より自覚していかなければいけないと、僕は思うのです。

「自分たちのサッカー」を探す旅は、これからもつづいていきます。

目先の結果とは別に、探しつづけていかないといけないのです。

さまざまな分野のトップオブトップで「自分の●●」を持たない者など、はたしているでしょうか。

僕は、いないと思います。

「自分の●●」のひとつもなくて、どうしてトップオブトップになれるのでしょうか?


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献身・尊重・誠実、強いチームには確固たる理想があってしかるべき!