人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

身も蓋もない、無謀で純粋な恋に堕ちてしまった女は、美しく、ひたむきに、強かに、そして醜く成長していく。

人妻の菜月は、独身のフリをして参加した食事会で、独身の達也と出会い、警戒心を抱きつつも、ついに恋に堕ちてしまう。しかし、彼には実は恋人がいた...?




「このまま、たっちゃんと一緒に暮らせたらいいのに」

あゆみの媚びるような声が、達也の耳にふわりと不快に響く。

食事のあとに部屋にやってきた彼女は、下着姿に達也のTシャツを羽織り、いつまでもリビングで寛いでいる。

Tシャツの裾からは形の良い脚がスラリと伸びているが、一通り事が済んだ後では、大して興味もそそられない。

あゆみ曰く、今日は“付き合って三ヶ月記念日”らしい。だが正直、達也にとっては“恋人”と呼べるほどの存在ではなかった。

彼女を初めてこの部屋に招いたとき、半ば押し切られるような形で、生半可に返事をしてしまったのだ。

艶やかな長い黒髪に、少々キツめではあるが、美しく整った顔立ち。そのとき達也は、ただ肉体的な欲望に逆らえなかった。

「終電、まだ大丈夫?」

なるべく優しく言ったつもりだが、自信はない。

あゆみの表情を見るのも億劫で、テレビから目を逸らさずにいると、視界の端で彼女が帰り支度を始めたのでホッとする。

しかし、この物分かりの良さというか、妙な賢さが、あゆみの手強いところだ。だからこそ、切るに切れない関係が続いている。

―ここにいればいいじゃん。帰らないでよー

昨晩、違う女に対照的なセリフを囁いたことを、達也は自嘲気味に思い出す。

菜月に対しては、なぜか強い支配欲が湧いてしまうのだ。

それは単に、彼女が人妻だからだろうか?


菜月と達也の関係は、さらに深まっていくが...?


いつか、きっと罰が下る


小ぶりの旅行鞄に下着や化粧品を詰めながら、菜月は自分がどこか現実味のない、遠く離れた世界にいるような気分に浸っていた。

達也とこれから丸2日間も一緒にいられると思うと、どうしようもないほどの感情が込み上げてくる。身体が火照り、そわそわと落ち着かず、しまいには息苦しくなってしまう。

もう、どうにもこうにも、達也への気持ちに歯止めが効かなくなっていた。

葛藤も懸念も不安も、いつの間にかどこかに消えてしまった。菜月はひとりの女として、ただ目の前の恋に夢中なのだ。

最近達也とは、週に一度のペースで平日の夜に会っている。妻という立場の菜月にとっては、それが限界だ。

「ここにいればいいじゃん、帰らないでよ」

限られた時間の逢瀬のあと、彼は決まって菜月を引き留めようとする。その度に、菜月は嬉しさと困惑で身体が二つに引き裂かれてしまうような感覚に陥った。

―私だって帰りたくない。ずっと一緒にいたい。

しかし、本音をぐっと堪え、抜け殻のような身体を引きずりながら夫婦の自宅へ戻るのが常だ。

会うのは週に一度でも、達也は毎日欠かさず連絡をくれたから、菜月はもう、夫と達也の二人の間で揺れる二重生活の境界線すら曖昧になっている。

本気で恋に堕ちるというのは、そういうことだ。だから恐い。

そんな最中、医師である夫が、学会の関係で海外出張に行くことが決まったのだった。


夫の不在の合間に、逢瀬を重ねる二人


番町の自宅から、100メートルほど離れた小道。以前、達也と帰宅したタクシーを降りた場所に着くと、黒いBMWのSUVが停まっていた。




「中、あんま掃除してないけど。どうぞ」

達也はサングラスをしたまま、ぶっきらぼうに言う。Tシャツにジーンズ姿の彼は、いつもよりも幼く見える。彼は夫の不在に合わせて、会社を休んでくれたのだ。

「お邪魔します」

菜月はこのとき気づいたのだが、達也と昼間に会うのは初めてだった。気恥ずかしさと同時に、まるで学生時代に戻ったような高揚感が身体を包む。

「なに、ニヤニヤしてんの。清純ぶってるくせに、菜月さんてほんとに不良妻だよね」

達也の意地悪はいつものことだが、一人浮かれていた菜月は、わずかに残る背徳感がチクリと痛んだ。

「...うそだよ、そんな顔しないで」

後頭部を強く引き寄せられ、唇が重なった。

視界が、ゆっくりとぼやけていく。

自分が何をしているのか、考えるのはやめた。今からしばらくは、夫も家のこともすべて忘れ、菜月はただのひとりの女になることを決意する。

きっといつか、この罰が下るときが来るだろう。

でも、あとのことなんて、今はもうどうでもよかった。


恋に没頭する二人。しかし、一瞬の気の緩みが招いたのは...?


「堕ちるとこまで、堕ちようよ」


「ねぇ、もう旦那としないで」

達也は菜月を見下ろしながら、小さく呟いた。

「...どうして、そんなこと言うの」

「なんか、不安になってきた。菜月さんが他の男に抱かれるのが」

その瞳が、切実そうに小さく揺れている。いつもは菜月を困らせて楽しむような節がある彼にしては、珍しいことだ。

「じゃあ達也くんも、デートも食事会も行かないで。他の女に指一本触れないで」

胸の奥がきゅっと締めつけられると同時に、菜月は反射的に口から出た大胆な言葉に驚く。

達也に女の影があるのは、だいぶ前から気づいていた。あれだけ彼の部屋に通っていれば、小さな痕跡は嫌でも目についてしまう。

しかし自分の立場上、彼を責めることも縛ることもできなかったのだ。だが今の菜月は、帰る場所のある人妻ではない。




二人は、葉山の海沿いのホテルに来ていた。

もっと遠い場所に行ってしまいたかったが、万一何かあればすぐに帰れるようにと、無難な場所を選んだのだ。

しかし、東京からたった2時間弱の距離を離れただけで、これまで二人の間にあったそれなりの抑制や遠慮は、一瞬で消えた。

世間への背徳感からか、不貞を働いた罪悪感からか、二人の絆はたしかに強くなっているのだ。

「...わかった。じゃあ、お互いに約束だよ」

胸が、焼けるように痛んだ。

「どうなっちゃうのかな、私たち。私、家に戻れるかな」

「いいよ、戻れなくなって。ここまで来たら、もう堕ちるとこまで堕ちようよ」

こんな関係が、永遠に続くわけない。

そんなことは当然頭では理解しているつもりだが、痺れるように甘く苦しい感情の波に、菜月は全身を支配されてしまう。

きっと達也も、同じような気持ちなのだろう。二人は部屋から一歩も出ることができず、一分一秒を惜しむように、半ば投げやりに、ただひたすら抱き合っていた。

もうすでに、堕ちるところまで堕ちているのかもしれない。

これ以上の底があるなんて、怖くて考えたくもなかった。



「本当にいいの?まだ帰らなくて」

彼のマンションのエントランスで、達也は最終確認のように、遠慮がちに菜月に問う。

葉山から東京に戻ると21時を過ぎていた。でも、夫が帰宅するのは明日の夕方だ。

あの非日常のような場所で濃密な時間を過ごしたあと、夫婦の自宅にそのまま戻るのは、あまりに酷だった。達也とも、ギリギリまで離れたくない。

「うん。夜中か朝方に適当に帰るから大丈夫」

菜月が答えると、達也は優しく微笑み、肩を抱き寄せてくれた。しかし次の瞬間、心臓が大きく嫌な音を立てた。

「...たっちゃん?出張じゃなかったの?その人、誰?」

声の方を振り返ると、そこには、顔を歪ませた一人の女が立ち尽くしていた。

一瞬の隙、自制心の欠落。ほんの少しの気の緩み。

でも、何かが崩れるときは、いつだって、些細なことが引き金となるのだ。

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暴かれてしまった、禁断の恋。菜月は罰を受ける...?