クラシック音楽の流行は、いかにしてつくられるのだろうか?(写真は『アダージョ・カラヤン』1995/ポリドール)

「いま何が面白い」は、自然発生的に生み出されるのではない。クラシック音楽がいかに純粋な芸術のように見えようとも、そこにはビジネスが介在し、ときに仕掛け人の存在が大きく影響する。だがそれ以上に重要なことは、クラシック音楽の流行は、常にメディアが規定してきたという事実である。

私たちがふだん耳にするクラシック音楽の流行は、いかにしてつくられるのだろうか? 19世紀の終わりにエジソンが蓄音機を発明して以来、録音・再生メディアの技術の発展は大衆のクラシック音楽の嗜好傾向に大きな影響を与えてきた。

1980年代に一大ブームとなり、いまや最大の人気交響曲作家の一人として不動の地位を得たのが、ボヘミアに生まれ、世紀末ウィーンで活躍したグスタフ・マーラー(1860〜1911)である。その巨大で緻密なオーケストレーションは、後期ロマン派の爛熟した美、自然界の息吹きや毒に満ちた皮肉、世界全体を包括するような多様な響きに満ちているが、その迫力とニュアンスは、高度成長からバブル期へと向かうなかで、庶民でも高音質なオーディオ装置を手に入れやすくなったからこそ、理解されたのである。

『ベスト・オブ・サティ』(2014/ワーナーミュージック・ジャパン)「クラシック・マスターズ」 フランス在住のイタリア人ピアニスト、アルド・チッコリーニが演奏するサティの有名曲集

1970年代に本格的なブームが始まったエリック・サティ(1866〜1925)も、一時の流行という次元を超えた存在になった。「家具の音楽」という斬新な哲学で知られ、「ジムノペディ」をはじめとする官能的で静かなピアノ曲をパリで生み出した、孤高の貧乏作曲家が好まれるようになったきっかけは―皮肉なことに―豊かさを手にした日本人にとっての、新しくてお洒落な音楽としての価値であったかもしれない。

メディアを通して音楽を知る

マーラーとサティには共通点がある。どちらも学校の音楽室に肖像画が掲げられていない、つまり教科書に出てこない作曲家だったことである。学校で教わらない音楽を知るきっかけはただひとつ、メディアである。ラジオやテレビ、レコードやCD、雑誌からの情報といった媒体によって、人々は新しくて面白い音楽を知る。

なかでも、かつて最大の影響力を誇っていたのが、地上波テレビ放送によるクラシック音楽番組である。山本直純の司会で、ざっくばらんにクラシック音楽を庶民の生活に近づけた「オーケストラがやってきた」、かつては黛敏郎が司会者をつとめて格調高くも大衆に向かって語りかけた「題名のない音楽会」(現在は「新・題名のない音楽会」)。この2つの民放クラシック番組が果たしたこと、それはクラシック音楽の上質さを、お茶の間という暮らしの場にわかりやすく届けたことであろう。それは日本全体が豊かになり、メディアを通してさまざまな価値を受けとるようになっていったことの表れでもあった。

バブルの崩壊と前後して、クラシック音楽にも大きな象徴的出来事が訪れる。それが、カラヤンとバーンスタインの死であった。指揮界を代表する二大スターが亡くなったことは、巨匠の時代の終わり、神話の終焉を意味していた。

クラシック音楽はかつては教養であった。尊敬され、畏敬され、ときには煙たがられつつも、一流の知識人であれば備えているべき格調高い趣味であった。それが庶民のところにも笑顔とともにやってきて、誰にでも共有できるものになったのが、高度成長期からバブルにかけてのメディアを介した現象であった。

『アダージョ・カラヤン』

(1995/ポリドール)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ヨーロッパで80万枚のセールスを記録したアダージョ名曲集

ところがカラヤンとバーンスタインの死によって、クラシック界は崇拝の対象、最大の権威を失った。そこで起きたのが権威の解体である。1995年というインターネット元年に「アダージョ・カラヤン」という編集企画盤CDがビッグセールスを記録したことで事態は一気に表面化する。楽曲は全部バラバラにして、過去の録音をつまんで編集すれば大儲けできるという、一時的な繁盛をレコード会社は謳歌することになる。それは過去の録音財産を食いつぶすことでもあったのだが。

権威の解体とともに、クラシック音楽のビジュアル化が始まる。各レコード会社は、ポップスの売り方をクラシック音楽に援用するようになる。その最先端が、日本コロムビアの創始した「Jクラシック」である(Jポップのもじり)。新しい売り方によって、ドル箱のスターを創ること。それは美女やイケメン、生き様系(テレビのドキュメンタリーで取り上げられるような……)の時代の始まりを意味していた。

それは功罪相半ばする現象だった。権威主義からの脱却、若い演奏家にもチャンスが与えられるという意味ではよかっただろう。だが、見た目重視で音楽を判断しようとする傾向に拍車がかかった事実も否めまい。

エンターテインメント精神ある葉加瀬太郎の出現

『葉加瀬太郎VIOLINISM 掘

(2017/ハッツ・アンリミテッド)2002年に発表した『VIOLINISM II』のメンバーを起用したニューアルバム。「アナザー・デイ・オブ・サン」(映画『ラ・ラ・ランド』より)などを含む

クラシカル・クロスオーバーと呼ばれる新ジャンルが登場したことも大きな流行のひとつであり、いまやそれはすっかり定着した。その中の最大の一人がヴァイオリニスト葉加瀬太郎である。ポップスやロックやジャズなどの幅広い音楽経験とサウンドセンスを生かしながら、クラシック音楽に対するリスペクトを決して失わない、そして何よりもお客を笑顔にし満足させる徹底的なエンターテインメント精神と努力、そして明るくユーモラスな言葉の力は、正統派のクラシック音楽家も大いに学ぶべき点がある。

クラシック音楽について、よく「不滅の名曲」などと言われるが、少数の有名曲ばかりをさまざまな演奏で聴き比べるのもひとつの楽しみ方ではあるが、境界線上で起きていることは常に面白い、ということも忘れてはならない。

たとえば1990年代半ば以降、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルがアルゼンチンのタンゴの革命児アストル・ピアソラ(1921〜1992)を取り上げたことで、一気にピアソラはクラシック音楽の仲間入りを果たした。「リベルタンゴ」がクラシックの名曲だと考える人は少なくないだろう。名曲は時代とともに変わりうる。

バッハのみならず18世紀以前の音楽が、「古楽」としていま一番面白く、非権威的で自由なジャンルになってきていることも、見逃せない特徴である。それはやはり元をたどればカラヤンとバーンスタインの死後、顕著になった現象だと言えないだろうか。

現在の最大の課題は、インターネットによって既存メディアが支配力を急速に低下させ、CDというパッケージの意味が根底から問われるようになったことだろう。定額聴き放題の音楽配信サービスや、You Tubeの登場によって、もはや再生音楽に対価を払うのは、よほどの付加価値がついている場合に限られる。

そのかたわらで、デジタル化され圧縮され、利便性を重視することで軽量化された音声ファイルが常態化したために、かつてのアナログ全盛期に比べると、いつのまにか、遥かに劣化した音質の再生音が主流となってしまったことも大問題である。「ハイレゾ」(ハイ・レゾリューション・オーディオ=CD以上の高音質)が話題となっているのは、メディアを通して人々が、豊かで多様な新しい音楽に再び出会えるようになる手段としての役割にほかならない。