葬送ジャーナリストの碑文谷創さんに聞く(撮影:村田らむ)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第8回。

葬儀業界の風潮を変えた伝説的な人物

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2017年8月現在、葬儀業界に関する国家資格はない。終活(しゅうかつ)関連を含めていろいろな資格があるが、すべて民間資格だ。ただし、1996年にスタートした「葬祭ディレクター」だけは、厚生労働省の認定を受けた技能審査に基づいて民間組織が資格認定を行っているため、民間資格といっても一種、別格の位置にある。

だから、葬祭業に携わる多くの人々は葬祭ディレクター資格(1級、2級)を取得するために、寸暇を惜しんで勉強する。葬祭ディレクター技能審査協会公認テキストの『葬儀概論』を教科書として、『葬儀概論』を教科書として、葬儀の歴史や意味、業務知識などを事細かに頭にたたき込んでいく。

その『葬儀概論』の著者が葬送ジャーナリストの碑文谷創(ひもんや はじめ)さん(71)だ。1990年に表現文化社を設立して以来、葬送専門雑誌『SOGI』を隔月で発行し続け、葬儀業界の風潮を変えた伝説的な人物として知られている。

『SOGI』創刊号と最終号(撮影:村田 らむ)

しかし、『SOGI』は2016年8月発売号を持って刊行を停止。表現文化社も2017年1月にすべての清算手続きが済んで消滅した。70歳を過ぎたいま、碑文谷さんは四半世紀ぶりにフリーランスとなっている。これまで持っていたものは財産も車も会社と一緒に差し押さえられてしまった。それでも瞳の奥は沈んでいない。むしろ、意気揚々としている。

碑文谷さんはどんな人生を歩んできて、いま何を思っているのか。都内の最高気温が30度を超えた8月某日、新宿の雑居ビルにある小さなレンタル会議室でじっくり聞かせてもらった。

碑文谷さんが生まれたのは1946年1月。団塊の世代が生まれる直前の世代だ。キリスト教の牧師として岩手県一関に赴任していた父親の下、姉と兄が1人ずつの末っ子として幼少期を過ごした。

小学校では、生徒たちが主体的に自治する「児童自治会」という組織を上級生向けに設けており、碑文谷少年も積極的に活動した。世間が戦後民主主義に燃えていた時代ながら、全国でも珍しい取り組みだ。「それがその後の生き方にずいぶん影響を与えているかもしれません」という。

活発な性格は中学に進むと拍車がかかり、バスケットボール部に熱中しながら、弁論部や新聞部、放送演劇、生徒会と、中学校生活のオプションをすべて盛り込んだかのような3年間を過ごす。その勢いのまま、毎年3ケタの東北大合格者を排出する名門高校に入学し、まずまずの成績を残していく。趣味ではとりわけ文学に熱中し、キリスト教神学や哲学書、国内外の小説を読み漁り、自身も『現代詩手帖』(思潮社)の常連投稿者になったりもした。

学生運動に没頭

ここまでははたから見て申し分のないレールを走っているようにみえるが、大学受験の時期になって突然、職員室に呼び出されるようになる。教師たちに期待された東北大法学部を蹴って、プロテスタント系の東京神学大学に進路を絞る決意を固めたためだ。何度も翻意を促されて罵(ののし)られもしたが、心頭していた神学者カール・バルトを学びたい一心から決意は揺るがなかった。

そして、希望していた東京神学大学に入ると学生運動に没頭するようになる。

表面だけどんどん豊かになっていくのが、虚構に見えた(撮影:村田らむ)

「私たちの世代は、真上にいる戦中世代の空気を浴びながら、1955年から始まる経済成長の波にもまれた世代なんです。貧しい戦争の影を引きずっていた世界ががらりと変わっていく様を目の当たりにしてきました。戦争のことを思想的に清算しきらずに表面だけどんどん豊かになっていく。それが虚構に見えてしかたなかった」

大学は自らの意思で学ぶ場であり、教わる場とは思ってもいなかった。だから、カール・バルトは自力で学ぶ。一方で、戦争協力等の矛盾を清算しないでいる権威と映った多くの教授や教団には論争をぶつける。自分のなかで筋が通れば、回り道なしに中央突破する性格はここにきて研ぎ澄まされていった。

反戦運動ではセクト(新左翼党派の一派)にも途中から所属したが、内ゲバ問題を契機に疑問を感じて、大学院に入った頃に内部批判をして脱退。辞める際は会議室内で四方を囲まれ批判されて翻意を促されたが揺るがなかった。その後は思想運動を中心に活動し、東京神学大学全学共闘会議を組織しリーダーとなる。キリスト教会内部で神学批判の論陣を張ること2年。最後は大学側から参加者の除籍などの切り崩しに遭い、敗北にけじめをつけるべく、周囲の反対を押し切って解散宣言をして、大学は中途で去ることになった。

学生時代、留置所には3回入れられた。うちのひとつが碑文谷署で、そのとき署内で「碑文谷署一号」と呼ばれたことが筆名の由来となっている。

「あの頃は留置所に入るのもそんな特別なことじゃなくて、ショックはなかったですね。公安の人が私に張り付いていて、寮を出てきたら『今日はお前をやるぞ』とささやいてきて、案の定逮捕されるとかそんな感じで(笑)。署内では、同房のヤクザの人にその署内特有の布団のたたみ方を教えてもらったりして、いろいろ助けてもらったのを覚えています」

富への渇望はなかった

生活に目を向けると、幼少期から学生時代の途中まで、金銭的に余裕のある時期はまったくなかったという。

「牧師というのは貧困家庭ですから、生活はずっと苦しかったです。大学も米国の宣教師団や日本育英会から奨学金をもらって、アルバイトをしてどうにか通っていたくらいです。ただ、当時は貧しいのが当たり前だったので、あまり気にならなかったですね。皆そうだから」

当時は1964年の東京オリンピックが終わってまもなくの頃。ベトナム戦争が勃発するなどして世界的に政治の季節に入っていた。モノがあふれる高度経済成長の空気は1970年代半ばまではまだ少し間があった。学生の絶対数は少なく、苦学生も珍しくなかった。飲み屋街には皿洗いする代わりにタダで飲ませてくれるような店があり、珈琲1杯で何時間も粘れるジャズ喫茶も多かった。碑文谷さんが語る学生時代の日本は、おカネがなくてもモノがなくても、それなりに楽しめる空気を感じさせた。

そうした時代と思想の背景から、社会に出ても富への渇望はなかった。大学院時代から執筆活動を続けていた関係から、教材関係の出版社に勤めるようになったが、生活費を稼ぐという意識はあまり湧いてこなかったと振り返る。

「子供も生まれて、家族を食わせていかなきゃならないというのはあったけれど、勤めて生活の基盤を作るのは第一ではなかったですね。勤めていてもう嫌になったとき、ルーチンワークの中に取り込まれて抜け出せなくなるのが嫌だったから」

しかし、社会活動の中心に据えていたキリスト教関連の執筆も28歳のころに辞めてしまう。

「闘争敗北という挫折感もあったし、表現することに限界を感じていたところもある。思想的にもう一つ掘り下げないと表現者としてやっていけないと思った。大学を辞めていった仲間たちのこともあって、もう続けられなかった」

東京神学大学全学共闘会議の解散後、70人の学生が大学を去った。そのうち何人かは牧師になったが、別の道に行くことになった人も相当数いる。いろいろなことが肩にのしかかった。

それからは筆名を封印し、編集者として仕事を続けた。籍を置く出版社で教材関連を作りながら、時にほかの出版社からの編集の仕事を請け負うなど、半分フリーランス半分会社員というようなスタンスを確立。大卒初任給が5万〜6万円の時代にその3倍程度をコンスタントに稼ぎ、生活は安定した。そして時代は高度経済成長期を過ぎてバブル期に突入する。

葬送事情を伝える雑誌を作るプロジェクト

転機は1990年。44歳のときに訪れる。30代後半のころから管理職的な仕事も掛け持ちせざるをえなくなり、ストレスが大きくなっていたのと、経営者との折り合いが悪化していたのとで、辞め時を考える日々を送っていたときだ。

昔の知り合いから「葬送事情を伝える雑誌を作るプロジェクトがある。スポンサーの手立てもあるから、編集長として参加しないか?」との誘いがきた。退職の手続きをとるのをためらう理由はない。すぐに合流し、ほかから集まった数名のメンバーとともに、プロジェクトのための出版社・表現文化社を設立。封印していた表現者としての筆名も復活させた。

碑文谷さん自身、それまで葬儀に関して特別な思い入れはなかった。ただ、「人間の死とそれにかかわる文化が正当に扱われていないのはおかしい」という気持ちは抱いていたし、ジャーナリスト的な視点ではほとんど手つかずのジャンルであったこともモチベーションになったという。

取材対象に不足なし。しかし、相手は内も外も風通しが極めて悪い厄介な業界だ。

当時、葬送事情というのはいまよりはるかにタブーだった。街を霊柩車が走れば道行く人は親指を隠し、葬式の場では、一人の識者が重ね言葉はNGといったことがまことしやかなマナーとして広まり、帰りに悪霊を祓うため(?)の清めの塩が配られるなど、数々の迷信が育まれたのもこの時期だ。死について考えるのは縁起でもないという風潮の下、葬儀社も世間から“見えない存在”とされていたフシがあり、それを悪用して不誠実な稼ぎ方をしていた業者も少なからずいた。

覚悟して取材に挑んだところ、業界からの向かい風は意外と吹かなかったという。取材拒否の場合も照れて断るというくらいで、大抵の葬儀社や寺院は乗り気な姿勢でインタビューに応じてくれた。

通常号の価格は4800円+税(筆者撮影)

「当時の葬儀業界は差別や偏見の中にあったんですね。そのなかで私たちがちょっとクオリティの高い雑誌を出し、当時『奇妙な雑誌ができた』と新聞や雑誌、テレビなど100媒体以上に取り上げられた。それで『うちの業界にもこんな雑誌ができたんだ』『自分たちの業界を代弁してくれる』と喜ばれてね。結構最初のほうから応援してもらったと記憶しています」

1号につき4800円+税の通常号価格は最初から最後まで変えていない。ただ、内容については、当初から「業界誌は作らない」と決めていた。葬儀業界を代弁するというより、死とそれにまつわる文化について考えるのを主眼としていたが、ある種のステータスとして定期購読契約した葬儀社は多かった。

「葬儀業界だけをターゲットにしたわけではないんですが、創刊号を業界の人たちにたくさん配布したこともあって、多くの葬儀社の方に支持してもらいました。実際のところ内容を評価して買ってくれていたのは4分の1くらいだったと思います」

創刊号の誌面(撮影:村田 らむ)

刷り部数は公称1万部で、実売はその半分強。雑誌の好調な滑り出しを背景に、創立2年目に表現文化社の共同経営権を獲得し、4年目以降はすべての経営権を握った。スポンサーは発言の自由の邪魔になると考え、創刊当初からのスポンサーが出した分を買い取り、分割返済することになる。碑文谷さんが舵を取る環境が固まった。

そして、1996年8月には冒頭で触れた葬祭ディレクター技能審査制度がスタートする。それを受けて前年11月から『SOGI』と並行して『葬儀概論』の執筆に取りかかり、4カ月で上梓。以降は葬祭ディレクター技能審査試験の問題作成や審査官講習などの実質責任者を20年間務めることになる。資格制度は業界に広がり、「葬祭従事者の資質の向上と社会的地位の向上」(『SOGI』34号より)という狙いどおりの効果を与えていった。

ストレスをため込むほうではなかったが…

と、そんな順調な道を歩んでいる2001年、碑文谷さんの身を異変が襲う。急に活力が湧かなくなり、家に閉じこもり、不眠になった。うつ病だった。

うつ病の引き金になった原因はわからない(撮影:村田らむ)

「いろいろな人間関係がストレスになっていたとは思うんだけど、いまだに引き金になった原因はわからないんですよね。私はそんなにため込むほうではなくて、そんな人間でもうつになるんだとびっくりしたのを覚えています」

完治はしなかったが、病気を自覚してからは折り合いの付け方がわかるようになり、まもなく復帰できたという。

碑文谷さんが家から出られない間も、他紙に連載した記事をつなぎ合わせて特集を組むなどして、隔月発行を継続しており、売り上げは安定していた。しかし、徐々に暗雲が立ち込めてくる。

2000年代半ばになると、都心部を中心に葬儀の小規模化が目立つようになり、葬儀業界も従来のやり方では利益が確保しにくくなってきた。そうなると、高価な雑誌の定期購読を続けるのが難しくなる葬儀社も増えてくる。

「最初に祭壇が売れなくなって、棺(ひつぎ)も中国から安価なものが輸入されるようになった。そうなると皆ギリギリでやっているから、必要のないものから削減していくわけです。1冊が高いだけに、1社から購読を切られると大きかったですね」

打開策が出ずあえいでいるとき、追い打ちをかけるようにリーマンショックが起きた。下降線のカーブは崖のように急峻になり、立て直しはますます困難になっていった。

スポンサーの資金は2004年に完済したが、そのために表現文化社は銀行から4000万円を借りている。毎号の売り上げで借金を返していたが、利益が小さくなっていくとどうしても返済計画はうまく回せない。いつしか、碑文谷さんが個人として請け負った講演料や他誌での原稿執筆料なども充てるようになっていた。そして、最終的にはほかのメンバーを役員から外して自分1人を連帯保証人に置いた。

最終号は2016年8月に発売した154・155合併号。通常号の2倍のページ数を使い、これまでの総括として自らすべて編集執筆した「葬送の原点と歴史」特集と、人類の葬送にまつわる歴史年表を中心に構成した。新しい取材記事や巻頭の葬儀レポートコーナーがなかったのは、直前の号で外部のライター、カメラマンへのギャラ支払いを終え、彼らに不払いを発生させないためだった。

最終号の次号予告(筆者撮影)

同年9月に実施される平成28年度の葬祭ディレクター技能審査に影響を与えることを懸念し、これが最終号であることはひた隠した。最終ページには出す予定のない次号予告まで載せている。

技能審査が済んだ9月末、表現文化社の公式ページに「ご報告」と題した文書をアップし、そこで初めて『SOGI』の休刊と、同社の閉鎖を公表した。また、最後まで定期購読を続けていた人には、自筆のメッセージを添えた手紙も送付している。

最終的に負債は5000万円を超えていた。

カネの切れ目は縁の切れ目

「雑誌なんだから広告ももっと積極的に取りにいかなければならなかった。営業力が弱かった。儲かってもポリシーに反することはしなかった。これが売り上げ的に大きかった。けれど、理念や自由に制約がかかることはしたくなかったんですね。自由にやりたいから出版社を飛び出して、スポンサーからも独立したんだから。……結局、いろいろなことに折り合いをつけて経営する能力がなかった。カネもなく経営能力もない人間がこういうことをやると苦労する。その見本みたいなものですよ」

「カネの切れ目は縁の切れ目」とはよくいわれるが、碑文谷さんの周りでも告知後に離れていく人は多かった。地位や立場を超えて深く付き合っていけると思っていた仲間や同志、知人のうち4分の3は消えていったとか。

「もともとおカネのつながりはそんなにはないわけですよ。それでも、経済的に破綻としたという事実は大きく受け止められるということなんでしょうね。おカネがどうこうより、終わった人間と思われたんじゃないかと思います。終わった人間、もう付き合っちゃいけない人間みたいな感じでね」

そう語る碑文谷さんはどこか楽しそうだ。それは「終わった人間」という評価を覆す自信や意欲が根底にあるからだと思う。

「会社と一緒に何もなくなっちゃったけれど、命まで取られるわけではないですからね。書く者としては辞めたつもりはさらさらなくて。だから当時もあんまり深刻にはならなかったと思います」

碑文谷さんは一貫して「書く者」だった。高校時代に詩を投稿していた頃から、あるいは中学校で新聞部に所属していた頃から。書く者だから、学生運動も政治的な振る舞い以上に思想を書きつづることに重きを置いたし、28歳のときに断筆したのもアイデンティティの根幹ゆえに中途半端が許せなかったゆえではないかと思う。そして、表現文化社の経営者でありながらも、経営よりも取材と執筆に注力した結果が、会社の倒産と、倒産してもなお心が折れていない現在につながっている気がする。

書く者としての挑戦

「自分が40歳のときは、正直なところ、70歳は終わった人間だと思っていました。だけど、まだやれると思っています。ただね、新しい情報を処理する力はどんどん落ちていくでしょう。実際、10年前に70代以上の学者が新しい情報の理解力に大きく欠けて無残な発言をしたというのを見ている。自分もそうならないという保証はない。

楽しそうに語る碑文谷さん(撮影:村田らむ)

だから、新しいことを取材したり考察したりするのは若い人に譲って、これまで得た知見を総合的に見て全体像を語るとか思想的に詰めるとか、そういう方向に行くかもしれません。葬送ジャーナリストと名乗るのはそろそろ辞めて、葬送評論家にしようかなとは真剣に考えてますね」

うつ病は現在も寛解しておらず、持病として折り合いをつけながら向き合っている。目立った悪化はなく、執筆活動を続けることに支障はない。『SOGI』休刊後も他誌への寄稿や講演などを続けている碑文谷さんをみて、去っていった人のうち何人かはすでに交流を再開しているという。

書く者としての挑戦はまだまだ終わらない。