なぜ鶴瓶は大御所なのにイジりやすいのか
■「笑福亭鶴瓶は“スケベ”である」
このアイコンを見て、誰のことかわからない人もいないでしょう。
現在、「鶴瓶の家族に乾杯」(NHK)をはじめ、「ザ!仰天ニュース」(日本テレビ)、「きらきらアフロ」(テレビ東京)などのテレビ番組、さらにラジオ、ドラマ、映画、落語と縦横無尽に活躍。老若男女に愛されている「国民的芸人」が、笑福亭鶴瓶師匠です。
しかし、いつから鶴瓶師匠は「国民的芸人」と呼ばれるような存在になったのか――そう聞かれると、困ってしまう人も多いのではないでしょうか。
関西では、1972年の入門直後からラジオやテレビで活躍していたとしても(アフロヘアーにオーバーオール!)、全国放送でその姿を見かけるようなったのは、1987年から2014年までレギュラー出演した「笑っていいとも!」か、それとも「鶴瓶上岡パぺポTV」か……。
これだけの存在なのに、意外とその来歴が知られていない――。
そんな疑問に答えてくれるのが、「てれびのスキマ」の名でも知られるライターの戸部田誠による『笑福亭鶴瓶論』です。生い立ちから結婚、反骨の若手時代、東京進出、タモリ・たけし・さんま・中居との交遊、落語への“愛”など、笑福亭鶴瓶師匠の長く曲がりくねった芸人人生をひもといています。
しかしまだ疑問が残ります。はたして鶴瓶師匠のどこが凄いのか? これについては議論が分かれるところでしょうが、『笑福亭鶴瓶論』では、ズバッとひとことで言いあらわしています。
「笑福亭鶴瓶は“スケベ”である」――。
それが彼の芸人としての凄みであり、人生哲学であり、老若男女に愛される理由でもある。その“スケベな魅力”の一端を『笑福亭鶴瓶論』を抜粋しながら、ご紹介したいと思います。(新潮新書編集部 金寿煥)
※以下は戸部田誠『笑福亭鶴瓶論』(新潮新書)の第1章、「鶴瓶とは“スケベ”である」からの抜粋です。
■「どこがおもろいねん」で生き残る
「“べえ”が足りないのよ」
久々に笑福亭鶴瓶の落語会に訪れた糸井重里は開口一番そう言った。
「べえ」とはもちろん笑福亭鶴瓶のことだ。「べえ」のエキスを浴びると元気になるのに、それが足りない。そんな意味をこめた発言だろう。糸井重里にとって笑福亭鶴瓶はそういう存在なのだ。
ちなみに言うまでもないが、鶴瓶は「つるべ」であり、「つるべえ」ではない。
だが、やっぱり「べえ」のほうがしっくりくる。
そこには鶴瓶の鶴瓶たる所以が隠されている気がする。
鶴瓶のスゴさは一般には伝わりづらい。試しに「どこがスゴいと思うか」とアンケートを取ったとしても、答えに窮する人が多いはずだ。
同世代の芸人からはもとより、後輩芸人にまでイジられ、ツッコまれ、タジタジになっている姿からは、“大物感”がまったくない。
■「どこがおもろいねん」だけが残る至芸
時にたどたどしく、冗長なトークは、短い時間でフリ、オチを完成させている今のテレビのフリートークからは時代遅れのようにも見える。
好感度は高いが、お笑い芸人が目指すべき頂点とは別の場所にいる。
そんな風に思っても無理はない。けれど、それはまったくの誤解だ。
たとえば、鶴瓶は日常のなんでもない出来事を寄り道しながら、たどたどしく話し、最後にはオモシロエピソードに仕立てあげる。それは「鶴瓶噺」としか言いようのない至芸である。
もし鶴瓶の話を聞いた僕らが、それを翌日、学校や職場で「昨日、鶴瓶がこんな話をしてて」と話しても、聞いた人から「どこがおもろいねん」と言われてしまうだろう。
「この『どこがおもろいねん』だけが(相手の印象に)残るわけや」
だからなんとなく鶴瓶は“軽く”見られてしまう。
「けど、だから僕は長生きしてるんです」
その芸当は、彼の話芸をひとつひとつ分析すればできないことはないかもしれない。
■“ヨゴレ”仕事を嬉々として行う60歳
だけど、鶴瓶のスゴさはその“芸”そのものではないような気がする。分析すればするほど、そのスゴさの本質から離れていくのではないか。
60歳を超えた現在(2017年)も、ローカル番組を含めテレビのレギュラーは6本。しかも、多くの番組で企画段階から携わり、『A-Studio』(TBS、2009年〜)などのように自ら多くの時間と労力を課している番組も少なくない。それに加え、2本のラジオ番組も継続中。そして自身の単独ライブといえる「鶴瓶噺」はもとより、現在は落語に力を注ぎ、高座に上がり続けている。
少し前で言えば2007年の『NHK紅白歌合戦』の司会を務め上げたかと思えば、その翌年末には「『紅白』からオファーがないから」と牛のコスプレで“授乳”に挑戦したり、ローションまみれになって水着の女性たちにダイブしたりといった“ヨゴレ”仕事を嬉々として行う。
なんたるバイタリティだろうか。
その源はなにかと問われ、鶴瓶はこう答えている。
「スケベやからかな(笑)」
スケベ。
まさにそれは鶴瓶を形容するに相応しい言葉だ。
とけるような細いタレ目、常に微笑みを浮かべているような口元、男性ホルモンが旺盛なのをイメージさせるようなM字ハゲ……。
その顔はスケベそのものだ。
■糸井重里は「“べえ”が足りない」といった
また鶴瓶はこれからの芸人に必要なのは、「いかに遊ぶか」だと言っている。とはいっても、いわゆる「飲む打つ買う」とは違う“遊び”だ。
「人見知りしない。時間見知りしない。場所見知りしない。そこに対していかに助平であるか。それが芸人にとってのフラになるんやから」
いかに助平であるか。貪欲に節操なく様々なものに向かっていけるか。
それは芸人だけではなく、誰にでも当てはまることだろう。
ちなみに“フラ”とはよく落語家を表現するときに使われる言葉で、理屈では説明できない天性のおかしさ、というような意味で使われる。
糸井重里は「“べえ”が足りない」といった。
その「べえ」は鶴瓶のことであるのと同時に、「スケベ」と言い換えることができるかもしれない。
鶴瓶の言う、「スケベ」とは一体どういうことなのか。
そこには僕らが幸福に生きるためのヒントが隠されている気がする。
今、日本には「べえ」が足りない。
ならば、これから鶴瓶の生き方を通して、「スケベ」に生きる術を学んでいきたい。
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1978年生まれ。ライター。ペンネームは「てれびのスキマ」。「週刊文春」「水道橋博士のメルマ旬報」などで連載中。著書に『タモリ学』『コントに捧げた内村光良の怒り』『1989年のテレビっ子』『人生でムダなことばかり、みんなテレビに教わった』など。
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(ライター 戸部田 誠)