“男女”と“車”に“音楽”を融合ーー『トゥルー・ロマンス』の精神受け継いだ『ベイビー・ドライバー』

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 ジャン=リュック・ゴダールがそれさえあれば映画が成立すると言った「男女」と「車」に「音楽」を融合して作られた映画、それがエドガー・ライト監督の最新作『ベイビー・ドライバー』である。

参考:『ベイビー・ドライバー』E・ライト監督インタビュー 「『ラ・ラ・ランド』と比較されるのはすごく不思議」

 ハリウッドには、ボニーアンドクライドフィルムと呼称されるジャンルが存在する。これは実在したギャングカップル、ボニー・パーカーとクライド・バロウに由来し、それゆえこの犯罪逃避行映画ものには悲劇的結末が不文律として存在した。このジャンルのパイオニア的作品はアーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』であり、同作もまた、実際のボニーとクライドを反映して逃避行の末絶命するという結末であった。

 幼き頃の事故で耳鳴りの後遺症を患った若き天才ドライバー・ベイビー(アンセル・エルゴート)は、常にipodで音楽を流している。音楽を聴いている時だけは耳鳴りが止むからだ。幾度となく繰り返されるフラッシュバックは、その耳鳴りの原因となった両親と乗っていた車での事故の瞬間である。彼は大切なものを失った場所である車の中から、離れるどころか、まるでそうしていないと生きていけないかのように留まり続けている。車内という閉じられた空間の中でリズムに身を委ねているベイビーは、母体の中で母親の鼓動を聞く胎児と変わりなく、まさにその名の通り“赤ん坊(ベイビー)”である。

 サングラスをかけていれば世界が色を失くしていても気づかないままでいられるし、イヤホンを挿していれば不都合な雑音が聞こえてくることもない。発する言葉はテレビで映った番組からの引用。否応なく巻き込まれていく強盗集団の逃がし屋の仕事も、そんな彼にとっては現実を忘れるための「逃避」の一種である。

 偶然ドラッグを積んだ車を盗んでしまったところから、組織のボスであるドク(ケヴィン・スペイシー)との共犯関係が始まったベイビーは、ドラッグを詰めたスーツケースを持ち帰ってしまったトニー・スコット監督の『トゥルー・ロマンス』の主人公・クラレンスの姿と重なる。同作はエドガー・ライト監督とも親交のあるクエンティン・タランティーノが脚本を務めたが、犯罪に手を染め逃避行する恋人たちは死ななければいけないという定石に従って、当初エンディングには2人とも死ぬ結末が用意されていた。しかし、トニー・スコットはこのエンディングを改変し、2人を生かすことにした。『ベイビー・ドライバー』は、その精神を受け継いでいる。

 母親がかつて働いていたレストランで出逢ったデボラ(リリー・ジェームズ)と一目で恋に落ちたベイビーは、初めてイヤホンを分け合う相手を見つける。2人が音楽を楽しむコインランドリーで、赤・黄・青の洋服が回り続けるドラムが信号機へと扮装すれば、車に乗らずして甘いドライブが展開される。デボラといる時だけは防衛具であるイヤホンもサングラスも、車さえも必要ない。母親の歌声に誘われるようにして巡り逢ったデボラは、まさにベイビーを大人へと成長させる母親的な存在でもある。

 そんな二人の軽快なボーイ・ミーツ・ガール映画でありながら、ベイビーに大人への通過儀礼を用意し、罪を償わせることで、ひとりの少年が大人になる成長物語としての側面もまた、映画を支える軸となっている。「逃避」をやめるまさにその瞬間に流れていた母親の思い出の曲は、その限りにおいては過去のベイビーを葬り去るレクイエムである。イヤホンとサングラスを外し、車内から飛び出したベイビーの姿に、誰もがエールを送らずにはいられないだろう。その時やっと、この世界に生まれることができたのだから。

 忘れられぬ過去の記憶は音楽に変わり、ガソリンに変わり、グレーになって昇華されていった。郵便局で働く女性の「苦労はみんな嫌だけど、虹は雨のあとに出る」という言葉通り、2人が再び笑い合う空には虹がかかっている。かつて犯罪を犯した恋人たちの逃避行に、明日はなかった。しかし2017年版クライドとボニーであるベイビーとデボラには、煌めく明日がある。(mizuki)