童謡「牛若丸」や歌舞伎十八番「勧進帳」でも知られる武蔵坊弁慶。悲運の武将・源義経に死を賭して使えた義に厚い人物として、現在も不動の人気を誇っています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、著者で京の都に造詣が深い英学(はなぶさ がく)さんが、弁慶の人となり、そして京都に今も残る「弁慶石」を紹介しています。

弁慶の人となり

今回は謎多き弁慶の伝説の一つに迫ります。「弁慶の泣き所」ならぬ「弁慶の人となり」などにも迫ってみましょう。弁慶には様々な伝説がありますがそのひとつに、ある大きな石にまつわる伝説が京都市内に残っています。弁慶が愛してやまなかったその「弁慶石(べんけいいし)」をご案内します。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟・源義経(よしつね)に仕えた武蔵坊弁慶は、豪傑な荒法師として知られています。現代でも「弁慶の泣き所」とか「内弁慶」などという言葉を聞いたりするので皆さんも名前は聞いたことはありますよね。それだけ彼は有名で且つ昔から庶民に親しまれた存在だったということでしょう。

京都に行くと、義経と弁慶が最初に出会った場所だとされている五条大橋に2人の石碑が建っています。昔から清水寺の参拝客で賑わう五条大橋は今では京都市内でも一番といっていいほど交通量の多い国道です。京都の街の人にも親しまれてきた弁慶ですが、その人となりは意外にも知られていません。

京都市内の中心地を歩いていると歴史にまつわるおもしろいものが沢山あります。京都はつくづく歩いていて楽しい街だと思います。市内中心地にも色々な史跡があり、その中のひとつが「弁慶石」です。場所は三条麩屋町(ふやちょう)東入の道路の北側にあります。京都のメインストリートの一つである三条通沿いです。よーじや三条店のとなりにあります。結構寺町通のアーケード寄りなので比較的賑やかな場所の近くです。この弁慶石には、男の子が触れると力持ちになるという伝説があります。女の子が触るとどうなるのかは分かりませんが(笑)。

弁慶は産まれる前、母親のお腹の中に18ヶ月もいたと伝えられています。そのため生まれたときから体が大きく、普通の赤ん坊の3倍もあったそうです。髪は肩まで伸びていて、すでに歯まで生え揃っていたと言われています。(そんな子供はいないとか言ってしまっては野暮ですよ・笑)。

弁慶は子供の頃、この弁慶石がある麩屋町に近い三条京極に住んでいたと伝えられています。その時に弁慶が大切にしていたのが、この弁慶石と呼ばれる石です。弁慶は「石フェチ」だったんですね〜(笑)。

1189年、弁慶は義経を護衛しながら、一緒に奥州に逃れます。そしてその後現在の岩手県平泉で最期を遂げました。亡くなった後、弁慶の大切にしていた石を京都の三条京極から平泉に移し、弁慶の死を弔ったといいます。

暫くして不思議なことが起きました。京都から平泉に移されたこの石が、「京都に帰りたい」と言い出したとのことです(疑ったりしたら野暮ですよ・笑)。石がしゃべりだしたことに周囲の人達は騒然となり、平泉には原因不明の病気が蔓延するようになったといいます。これは弁慶の祟りだと思い、平泉の人達は石を京都へ送り返したそうです。

石は現在寺町通り沿いにある誓願寺(せいがんじ)に置かれました。その後、明治26年に有志により引き取られ、昭和4年に現在の場所に置かれるようになったようです。それ以来この石は「弁慶石」と呼ばれるようになったそうです。そして、その時に町名も弁慶石町と改められ町の守り神として親しまれています。

実は弁慶という人物は書物や史実に残されている記録がほとんどなく実在したかどうかも怪しいといわれています。それでも昔から歌舞伎の演目にも登場するぐらい有名だったわけです。そのことを考えると日本全国沢山の人々から愛されたキャラクターだったということでしょうね。

オチ

ところでこの石の由来にはまったく別の説があるようです。弁慶石は昔、この町に住んでいた弁慶仁右衛門という大工の家の庭にあった石だというのです。でもやはり「弁慶石」は「石フェチ」だった弁慶が愛したものだったとして語り継がれることを願いたいものです。味気ないお話はご法度なので、皆さんは決してそんなことは言わないようにして下さいね〜(笑)。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

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出典元:まぐまぐニュース!