6人も座れば満席となるような、L字状のカウンターの端っこに座り、夕方のニュースが流れるテレビのブラウン管を見ているフリをしている。
 気になったのは、その古びたテレビの上にかけられた一枚の、絵。
 瓶ビールを一本開けて、気が緩んだのか。その絵を見ていると、グググと胸が熱くなり、涙腺まで緩み、涙があふれてきそうで必死にこらえている。
 カウンターの奥で、僕が頼んだおでんを器に盛ってくれているおばあちゃんに、こんな一見客のマヌケな姿を見られたくないと、頭上で「アベノミクス」を伝えるテレビに目を向け、顔をそらしていたというわけ。
「60余年に渡り、ご利用いただき、本当にありがとうございました」
 そんな張り紙を残して店を閉める理容店やタバコ屋の間に、最後の最後まで残った赤提灯の中で、吞んでいる。

 東京・銀座、三原橋地下街────。

 1952年(昭和27)年に誕生したといわれる地下街で、「変わらず残る、最古の地下街」と大げさにいう人もいる。
 この地下街が、ことし3月に閉鎖されるという噂を聞きつけ、その物語のひと欠片だけでも分けてもらいたいという気持ちで駆けつけた…。
 晴海通りを地下で渡るように形成された三原橋地下街の物語は、戦後生まれの生ぬるい僕でさえも酒をあおりたくなるほど起伏に富んでいる。
 三原橋という名のとおり、この地下街は、もともとは晴海通りの大きな橋だった。その下を、江戸時代に築かれた三十間堀という川が流れていた。
 この堀は、終戦をむかえて姿を消す。
 東京大空襲によってあふれ出たがれきを、この堀に埋めたのだ。
 真福寺橋・豊蔵橋・紀伊国橋・豊玉橋・朝日橋・木挽橋・出雲橋と架けられていた橋は、壊されたか、がれきに埋れたか、いまはその姿を見ることはできない。が、三原橋だけは残った!
 そして、三原橋の上に都電が走った。
 いま、映画館「銀座シネパトス」が入る三原橋地下街の入口で、天井を見上げると、梁が見える。この梁が、見事なアーチを描いている。思わず「うわうわうわ!」と声が出てしまうほどで、橋の下にいることを実感する。
「この曲線が、三原橋そのものよぉ」
 酒が焼酎お湯割りに変わったころ、隣に座った古老の常連が教えてくれた。
 戦後の闇市にみる露天商などを、三原橋の下に集めたともいわれているが、この地下街は、またもお役所都合に飲み込まれる。戦後の復興、高度経済成長、そして東京オリンピック開催で沸く建設ラッシュという波に、だ。

 こんどは、地下鉄日比谷線────。

 地下街の上を走っていた都電に代わり、街の下に日比谷線が通された。
「映画館に入ればわかるさ。ガタゴトと電車の走る音や響きがね」
 60年間、重ね塗られたヘビーな歴史を、酒の勢いに任せて軽快に語ってくれる古老に、こちらも前のめりで聞く。この地下街が閉鎖されるワケを、だ。
「震災があったでしょ、あれを機に、この土地を持っている東京都がさ、耐震性がどうだこうだって言ってきたらしくてね、それで、ここで一番大きい映画館が『立ち退きます』って判子押しちゃったわけ。映画館が押しちゃったらもう、おしまいだよ(グビッ)」
 かつての銀座名画座が、3月で閉館を決め、地下街も事実上、閉鎖に…。
 計り知れないほどの、この街の物語の一端に触れて、酔っ払ったらしい。
 ここで、先の涙腺が緩むワケだ。あの絵には、いま座っているカウンターの、昭和時代の姿が描かれている。
 そこには、割烹着をまとった男と、和服の女将の姿。誰が見ても夫婦とわかる。いま、この店のカウンターの向こうを見ると、いかにも威勢のいい男の姿はなく、おばあちゃんが、独り。
 聞くだけ野暮。この地下に流れる斜陽と鎮魂歌を、酒で紛らわした。

この連載は、社会福祉法人 鉄道身障者福祉協会発行の月刊誌「リハビリテーション」に年10回連載されている「ラン鉄★ガジンのチカラ旅」からの転載です。今回のコラムは、同誌に2013年2・3月号に掲載された第10回の内容です。

鉄道チャンネルニュースでは【ラン鉄】と題し、毎週 月曜日と木曜日の朝に連載します。

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