結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

結婚したら、母親と同じように専業主婦になることに疑いを持っていなかった志穂。だが、家事・育児をまったく手伝わない夫・康介に不満を募らせ、専業主婦から脱することを画策し始める。




久しぶりのラグジュアリー空間に、心躍る


ママ起業家からカウンセリングの場所に指定されたのは、アンダーズ東京のラウンジだった。

ここに来るまでに周辺を散歩してきたおかげか、ひなはぐっすり寝ている。

スヤスヤと眠るひなにブランケットをかけ、51階に到着した志穂は「美咲さん」を探した。

美咲さんは、志穂が見つけた「子供としっかり過ごしながら、高収入を目指そう♥」という触れ込みの起業塾を主宰する女性だ。

曰く、彼女は4歳になる男の子を育てながら起業をし、子供との時間をたっぷり取りながらも月に100万円を超える収入を得ているという。

最初は信じられなかったが、リンクされていた彼女のInstgaramページに投稿されている豪奢な生活を見ていると、その話もあながち嘘とは思えない。

ビジネスクラスでのハワイ旅行。現地でステイするのは、アウラニやハレクラニといった高級ホテルばかりで、よく海外を訪れている様子がうかがえ、東京の自宅も広尾にあるという。

だが何より、何枚もアップされている子供との楽しそうなツーショット写真に魅了された。

「私も康介に頼らず、自分の収入でひなとこんな生活がしたい!」

画面の中の美咲さんのライフスタイルに、志穂は夢中になった。

そして、その生活の秘密を知ろうと「主婦ママ起業塾 初回カウンセリング」に参加したのだ。


思わぬ偶然で、蘇る記憶。


あの時の間違いを、正したい。


アンダーズ 東京の『アンダーズ タヴァン ラウンジ&バー』のバーカウンターを通り過ぎた瞬間、独身時代のとある1日の記憶が鮮やかに蘇ってきた。



ー3年前ー

あの頃、女友達との近況報告は必ずと言って良いほど都内の高級ホテルで行われていた。

マンダリン オリエンタル、フォーシーズンズ、ザ・リッツ・カールトンなどといった場所へ赴いては、とりとめもない話をする。

ホテルのロビーやラウンジで喋っていると、他愛のない世間話までもがなぜだが少し格別なものに演出されたような気がして、志穂や友人たちはこぞってそうした場所に入り浸っていた。

このホテルがオープンした頃は、ちょうど康介と出会い真剣な交際を始めたタイミングだった。

志穂と聖羅はいち早くこのラウンジ&バーを訪れ、現実味を帯びてきた「誰かの妻になる話」でひどく盛り上がったのを覚えている。

「そっか。やっぱり彼が、運命の人なのね。」

肩や鎖骨のラインが大胆に見えるカットのトップスを着こなした聖羅は、興奮気味に志穂に向き合った。

先ほどから、周囲の外国人観光客が自分たちをチラチラと見ている。痛いほどの視線を感じながら、志穂は頷いた。

「彼の、まっすぐに向き合ってくれるところが好きなの。康介となら、なんてことない居酒屋でも、公園で過ごすだけの時間でも楽しくて。」

ノロけすぎー、などと軽口を叩きながら、2人はシャンパングラスを鳴らす。

あの頃は、本当にそう感じたのだ。

だからこそ、「俺が面倒見てやる」という力強い言葉にほだされ、後先考えずに好条件の正社員の座をみすみす失ってしまった。

だが、あの日から今日までの数年で、自分はどれだけ変化しただろう。

公園でも居酒屋でも楽しめたのは、それだけが志穂の世界の全てではなく、自分の稼ぎで思う存分自分の好きな場所に出かけていたからだ。

あの時、自分に真摯に向き合ってくれていると感じた康介の印象は、180度変わってしまった。

だがそもそもそれは、自分が夫というたった1人の人間に、経済的にだけでなく精神的にも依存してしまうという間違いを犯したからに過ぎないからだ、と思う。

その間違いを正しに、今日、自分は偶然にもまたここに戻ってきたのだと感じた。

決意を固めなおした志穂は、美咲さんらしき人が座る奥のソファ席へ向かった。


ママ起業家が語る、驚きの起業カウンセリングの実態とは


うまい話はそうそうない?


「わぁ〜可愛い!お嬢ちゃま、寝てますね♥」

Instagramやブログで散々見ていた美咲さんが、満面の笑みで迎えてくれる。

近くで見ると、写真よりも小じわが目立つのが少し気になったが、顔の造作が美人なことには違いない。全体的に華やかな雰囲気は写真の印象のままだった。

「今日は私のビジネスの秘訣を、カウンセリングに来てくださった志穂さんだけに特別にシェアしたいと思います。」




志穂は、急いで持参したノートパソコンを開いた。

ー私が実践!子供と過ごしながらも、ママが高収入を得る驚きの方法とは?

美咲さんのブログに書かれたその情報を得たいがために、志穂は7,000円(ブログ読者限定価格。実際は10,000円)の受講料と、ここのお茶代を支払う。

だが、美咲さんが得意げに喋り出した内容に、志穂は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。

「子供と過ごしながら収入を得るママ起業のポイント。それはズバリ、SNSでの集客をいかに極めるか、なんです。」

SNSでの集客、とタイプし、太字に直して美咲さんの次の言葉を待つ。

だが、嫌な予感は的中した。

「まず、SNSには大きな4つの種類があります。Facebook、twitter、アメブロ、Instagram。これら4つの特徴をよく知り、効果的な集客を行うのが、成功への鍵なのです。」

美咲さんは、4本の指を使ってゆっくりとそれぞれのSNSの特徴を説明し始めた。

そんな情報なら、志穂は既に知っている。この程度のことをこんなに偉そうに語られるなんて、信じられなかった。

90分のカウンセリングで内容が濃くなることを期待したが、結局美咲さんはその日、各SNSの特徴とアカウント運営方法の説明、自分のビジネスの自慢、申し訳程度に志穂の現在の状況をヒアリングしただけだった。

より詳しいアドバイスが欲しければ、月3万円のコンサル料金がかかるという。ふざけるのもいい加減にしてほしい。

ひなが起き出したのをいいことに、美咲さんの勧誘を振り切り、志穂は逃げるようにその場を立ち去った。



ーそれはやられたね(笑)

怒りと落胆のあまり聖羅にLINEを送ると、忙しい時間帯にもかかわらずすぐに返信をくれた。

ーでも、志穂が仕事探してるなんて知らなかったよ。私の知り合いで、ママでも働ける場所がないかとか、聞いてみてあげるよ。

無意味な出費は痛かったが、頼れる友人の存在に志穂はなんとか救われる。

そして次の日には、早速知人の会社だというECサイト運営会社のパートの仕事と、会社の近隣の無認可保育園の情報まで送ってくれた。やっぱり聖羅は凄い。

「とりあえず、飛び込んでみるしかないよね。」

ひなを膝に抱きながら、志穂はダメ元で無認可保育園の番号をクリックした。

▶NEXT:9月7日 木曜更新予定
果たして、志穂は無事に仕事を得ることが出来るのか?