永田町2丁目には、政財界の大物や高級官僚、地方の有力者らが列をなして訪れ、官邸以上に強い磁場が働く3つのビルがあった(#1参照)。この「権力の三角地帯」は、小沢一郎が総裁候補を呼び出した「小沢面接」、小沢と竹下登の修羅場、そして30億円分の割引金融債(ワリシン)が見つかった家宅捜索など、数々の政治ドラマの現場にもなっていた(#2参照)。

 その後、三角地帯では何が起きたのか。

(文中敬称略)


出典:「文藝春秋」2017年8月号「50年後の『ずばり東京』 永田町『権力の三角地帯』を行く」・全3回

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 金竹小が三角地帯から消えると「失われた20年」が到来した。経世会は橋本、小渕と連続で総理を生んだが内紛と分裂が続いた。04年には日歯連事件でTBRの派閥事務所に捜索が入り往年の威光は失せた。ビル自体も外資やブローカーの手に渡り08年に取り壊されたが、跡地の再開発計画も迷走を続けた。

 同時期、議員会館の建て替えが進んだ。山王坂の上空を横切る渡り廊下を通す案が浮上すると、住民たちは猛反対した。「議事堂が見えなくなれば、商売に影響する」などと声を上げた結果、計画は消えた。だが、会館裏の一方通行を解消するため移動を迫られた家屋もあった。


「三角地帯」の脇にある日枝神社 ©iStock.com

 永田町2丁目の風情は一変した。

 そんな中、ある政治結社が十全の5階にやってきた。日本会議だ。

「公務員っぽい方々が資料に埋もれながら作業していて、とても大それた団体には見えなかった」(入居者)

 97年設立で新宗教を淵源とし、4万人を擁する改憲勢力。保守系の国会議員約290人が支える。経世会支配を壊した小泉純一郎の靖国参拝や第1次安倍政権の誕生の後で右派の存在感が高まる中、国会近くに前線基地をひっそりと構えた。

 前出の2代目オーナーに経緯を依ねると、その口から安倍晋三の兄貴分だった大物の名が飛び出した。

「生前、7階に事務所を置いた中川昭一先生の紹介で08年から5階の部屋を借り、1年前に退去しました」

 十全は憲法論議がタブーだった時代から、改憲タカ派やそれを支える宗教右翼の梁山泊でもあった。日本会議がそこに現れたのは、その歴史を繙けば必然だったと思える。

 日本会議は毎年5月の憲法記念日に数千人規模の集会を開いている。一方、同じ日に別会場で改憲大会を開く老舗の結社がある。安倍の祖父、岸信介が設立した「自主憲法制定国民会議」だ。会長を務めるのは、岸が引退後の拠点にした協和協会の専務理事・清原淳平。同協会の本部も00年頃から十全にある。

 現在、協和協会の会長は空席だが、代表代行を岸の孫で安倍実弟の衆院議員、岸信夫が務める。私は岸に話を訊こうと問い合わせたが「清原専務に聞いてほしい」。そこで清原に手紙を送ると5日後に電話があり、会う約束ができた。彼から事前に読むよう勧められた国民会議のウェブサイトにはこうあった。

〈改憲派の中には『現行憲法無効・明治憲法復元』派と、当団体のように『現行憲法を有効とした上で、合法的・合理的な改憲を考える』派との、基本的考え・手段方法も異なる2派がある〉

 これによれば、前者が日本会議の事務方を担う日本協議会・日本青年協議会(日青協)を示すようだ。岸が69年に日本武道館で第1回大会を開いた際、新宗教が力を貸した。日青協の源流「生長の家」教祖、谷口雅春は1万人以上も集めた。だが後年、谷口は岸と折り合いが悪くなる。国際勝共連合(統一教会系の反共組織)が協力を続ける一方、日青協は離れた。今や安倍に近いその一派に、生前の祖父は懐疑的だった。

〈岸信介会長は、そうした考えに対して、それが『改正』ではなく、『革命』に他ならないもので、大体、そうしたやり方に、国民がついてくるかネ、と言われて(略)第2の三島由紀夫事件を引き起こす危険があることを心配しておられた〉(前出のウェブサイト)

 そうした岸の遺志を引き継ぐ清原だが、十全の入口で日本会議の大幹部に会えば挨拶を欠かさなかった。

「一時は協力してもらったんだから。でも、昨年、日本会議のことが本になって注目されたら、パッと引っ越した。危ないと察したんだろう。椛島(有三事務総長)君たちは利口なんだよ。『学生運動に毛が生えた程度』とみんな書くけど、“政権中枢”と繋がってるんだから」

 穏やかな口調で話す清原は、西武の創業者、堤康次郎の秘書から転じて、晩年の岸を補佐した。その間の数年、何者でもない清原の面倒を見たのは十全の初代オーナーだった。

十全から消えた小池百合子

 既存勢力に数と金の力で対峙するリアリストの巣窟がTBRなら、十全には同じ異端児でも、理想を叫ぶ破天荒なユートピアンが寄ってきた。その一人が、岸に近く勝共連合と縁の深い元労相の千葉三郎だ。

 千葉は後に十全になる料亭で謀議を繰り返し、60年に元A級戦犯の賀屋興宣や青木一男らと自民党の元祖タカ派「素心会」を立ち上げた。約100人の中には党青年局を率いた竹下の姿もあった。十全ができると千葉は外事務所を構え、オーナーや清原の支えで「日本長老会」を設立。素心会最高顧問の安岡正篤(思想家)や木村篤太郎(元検事総長)、桜田武(元日経連会長)らと政権に物申す「戦後の元老院」を目指した。

 ロートルの千葉に対し、新進気鋭のタカ派を率いて十全に来た男がいた。中川昭一の父、中川一郎である。

 74年12月、田中角栄は総理の座を追われた。当時、金権政治や親中外交を糾弾する反田中の急先鋒が中川だった。十全の3階を政策集団「青嵐会」の本拠地にし、青年運動や地方議会から這い上がった血気盛んな党人派を集めた。渡辺美智雄、中尾栄一、浜田幸一、中山正暉、江藤隆美……。今や「世襲議員の父」となった武闘派が青春を謳歌していた。

 さらに意外な人物も浮上した。

 小池百合子だ。

「ここに勤めていた。可愛らしくてよく挨拶してくれた」(河野哲丸)


かつて十全ビルにいた小池氏 ©文藝春秋

 小池はエジプト留学から帰って間もない77年頃から日本アラブ協会に籍を置いた。会長は岸の側近、中谷武世。本部は十全の4階にあった。

 小池の人生には父の「影」がある。

 彼はアラブ交易で財をなした。“戦後の黒幕”の一人と目された末次一郎の鞄持ちで中東を訪ねたのが始まりだった。だが小池の帰国後、父の会社が倒産。小池は当時からよく末次に進路相談をしていた。その末次がアラブ協会理事だった。

 また父は石原慎太郎のタニマチでもあった。自身も69年の衆院選に出たが落選。石原都政の副知事を務めた浜渦武生は学生時代、その選挙を手伝い、小池邸に居候していた。

 後に石原は青嵐会幹事長、浜渦は事務方として十全に入り浸り、83年、3階で自らの派閥を構えた。小池は父の同志が蠢く階の一つ上で働き、通訳や司会者として成功。90年、協会事務局長になると十全から本部を移す。そして、2年半後には父が夢見た政治家になった。

100人を超える「陰の大派閥」

 十全を取り巻くファナティシズムは、隣のパレにも飛び火した。

 青嵐会の世話人の一人で参院議員の玉置和郎はパレが完成すると、2階の203号室を押さえ、「宗教政治研究会」(宗政研)を設立した。

 その設立趣意書にはこうある。

〈ここに宗派性を越えた宗教界のリーダーと、政党性、派閥性を脱した政治家が密接な相互協力のもとに新しき世紀へ向けて、活動する〉

 玉置は、改憲論で岸と対立した谷口の庇護を受け、生長の家の政治組織(生政連)の支援で議席を維持していた。共産党が躍進した70年代、100万以上の集票力を持つ生政連は、勢いづく左派にも匹敵する機動力を誇り、自民党の大票田になった。総理の靖国公式参拝や元号法制化を求めるなど愛国的な姿勢は今の日本会議中枢とも合致する。実際、生政連は現日本会議事務総長の椛島が率いた日青協を頼りにしていた。

 玉置は、信仰心と自民党を狡猾に繋げた先駆者でもあった。選挙に弱い若手は教義に関係なく、500万とも言われた宗教票欲しさに宗政研に飛びついた。衆参34人で始動したパレでの勉強会は3年で75人になり、10以上の宗教団体と連携。金丸を顧問に迎え、高村正彦や大島理森らハト派の若手も合流した。100人を超えると「陰の大派閥」と呼ばれ、最盛期の田中派を脅かした。

 その存在感を発揮したのが、82年にあった党総裁選だ。鈴木善幸の後任に中曽根、河本敏夫、安倍、そして、中川一郎が名乗り出た。

 出馬に必要な推薦人は50人。中川は十全に「自由革新同友会」を立ち上げたが、中曽根派や福田派の議員が重複参加する“グループ”に過ぎない。なんとか、福田派から38人の名義を借りたが、なお12人足りなかった。困り果てて最後に縋ったのが、玉置の宗政研であり、生長の家創始者の谷口だった。

「中川は憲法改正をやります!」


公民権を回復した鈴木氏 ©文藝春秋

 十全とパレを行き来し、そう改憲派に訴えたのが、中川秘書の鈴木宗男と、玉置の秘書から生政連系の参院議員に転じた村上正邦だった。

 だが、結果は予備選で最下位。約1カ月後、中川は自ら命を絶った。

 その後、拓殖大のOB同士の村上と鈴木は、共に90年代後半の永田町で「叩き上げの寝業師」として活躍した。村上は01年、鈴木は02年に東京地検に逮捕され、同じ施設で受刑生活を送った。今日、村上はパレ、鈴木は十全に拠点を構える。

「中川先生が亡くなった2カ月後には私は5階の部屋を借り、年末の総選挙で初当選しました。新館ができてからは今の2階を使っています」

 そう話す鈴木は、今年4月末に公民権を回復した。取材中も5分に一度のペースで携帯が鳴り響く。机に高々と積まれた資料の間から顔を覗かせ衆院再出馬への意欲を語った。

「私は安倍総理に賭けています。北方領土問題の解決は未来志向で現実的解決の安倍総理にしかできない」

 そこから、徒歩1分もかからないところに村上の事務所がある。

「この部屋に宗政研があったんだ」

 参院で「法王」と呼ばれた男が居座るパレの応接間には、大勲位・中曽根がステッキをついて訪ね、村上に贈ったという漢詩が飾ってある。

 村上はふかふかの絨毯に胡坐をかき、「現職議員は質が悪いね」と呟いた。日本会議の仕掛け人とも言われる。だが、村上が塀の中に落ちた途端、関係者たちは姿を消した。彼らは今、安倍政権を支えている。

「生長の家で青年部長をやった元秘書も椛島の許へ帰った。(日本会議とは)僕から距離を置いたわけではないけど足は遠のいているな。僕はいたって自然体よ」

 村上は鋭い眼光で私を睨んだ。

「安倍政権には物申したいからパレを足場にして響く人にぶつけてる」

 二階俊博は党幹事長就任後も訪れる。村上と秘書の会話を聞いていると安倍に近い大物の名も出てきた。

 対する冒頭のアパ総帥は息巻く。

「首相官邸に一番近いあの場所から総理大臣を輩出したい」

 元谷はかの田母神俊雄を「論客」に仕立てた草の根保守運動の後見人でもあり、自身の政治塾には毎月、右派の政治家らを講師に招いている。

 TBR跡のホテルでも開く予定だという塾を覗きに、私は本社を再訪した。デヴィ夫人や安倍に近い若手議員3人のリレー講演が140人を前に2時間行われ、「反日」「捏造」「歪曲」という単語が響き渡った。

 最後、元谷はあの場所の話をした。

「(2年後の)竣工式は安倍総理も来るかな。それまで頑張ってほしい」

 TBRが消えた後、元総理の海部ら一部重鎮はパレに移った。パレには経世会黄金期を引き摺る「過去の人」が密談に明け暮れる麻雀部屋も残る。十全には一時期、日本維新の会が東京本部を置き、橋下徹が出入りした。だが、私には現在の入居者一覧を何度眺めてみても何の期待感も湧いてこなかった。

(常井 健一)