今回はいよいよワールドユースの核心へ。快進撃の裏側で負傷明けのボランチはどんな想いを抱き、仲間を見つめていたのか。写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

写真拡大 (全3枚)

 1999年3月、U-20日本代表はJヴィレッジに集結し、ワールドユースに向けた最終調整に入っていた。
 
 ピッチ外ではフィリップ・トルシエ監督が日本サッカー協会の上層部や医療スタッフらと、喧々囂々(けんけんごうごう)の激論を交わしていた。開催地はナイジェリア。国が定める渡航基準に準じれば、選手たちは3か月近くをかけて黄熱病、破傷風、コレラ(2回)の予防注射を打たなければならない。だがそれでは、最終メンバーにねじ込みたい選手が間に合わないと、指揮官が噛みついたのだ。彼は自身の経験上、黄熱病だけで問題ないと主張した。
 
 そしてもうひとつ、招集すべきか否かの渦中にいる選手がいた。稲本潤一である。
 
 Jリーグの試合で膝の靭帯を傷め、ガンバ大阪では強行出場を続けていたが、とてもワールドユースで先発を飾れるようなコンディションではなかった。Jヴィレッジのテラスから、仲間の練習を見守る稲本。物憂げな表情を浮かべていた。
 
「世代別の大会やから、一生で一度しか出れない。だからどうしても行きたかった。でも結果的にチームには迷惑かけましたね。ガンバにもU-20にも。両方とも中途半端やった。所属チームで出てないのに代表で出るのはおかしいやろと思ってたから、ガンバでは痛み止めの注射を打ちながら無理してやってたんですよ。そのリバウンドがU-20に合流してから出てしまって、コンディションはまるで上がらんままやった。

 いま、37歳になって冷静に考えてみると、多少プロじゃない振る舞いやったんかなと思います。後悔はしてないけど、周りには迷惑をかけてしまった」
 
 それでもトルシエは「イナを外すことはあり得ない」と、迷わず登録メンバーに選んだ。だが当然、稲本はベンチを温めるほかない。苦楽を共にしてきた僚友たちの快進撃を、彼はどう見ていたのか。
 
「そんなに悔しい感じではなかった。初戦で負けたチームがあそこまで行くって、国際大会じゃなかなかないことやないですか。ヨーロッパとかアメリカとかオーストラリアとか、開催基盤がしっかりしてるとこでやってたらまた違ったのかもしれんけど、ああいう厳しい環境の中ではチームがひとつにならなければいけない。ブルキナファソでの経験があって、しっかり団結できてた。一体感があったから、僕もその中で自分になにができるかだけを考えてましたよ」
 決勝トーナメントに入ると、みるみるうちにボウズ頭が増えていった。「バリカンを誰かが持ってきてて、ひとつ勝つたびにボウズにしていこうってなって。やることがなかったからね。決勝まで行って、最後にコウジ(中田浩二)が行きました」と明かす。
 
 試合に出れなくとも、世代を牽引してきた男はその集大成の大会で、フォア・ザ・チームに徹した。ムードメーカーとしての重要な役割を全うしたのだ。
 
 緩やかにコンディションが上向きはじめる。そして稲本は、ラウンド・オブ16のポルトガル戦で66分から交代出場。まずまずの動きを見せ、準決勝のウルグアイ戦でも出場機会を得る。しかし、そこでまさかの……。後半頭から登場し、たったの11分間でトルシエ監督に交代を命じられてしまった。
 
「イメージとしては十分にやれる感じやったんですけど、思ったより動けてなかったですね。かなりショックではありましたよ」
 
 数日後、チャンスはもう一度巡ってくる。決勝のスペイン戦。今度は0-3のビハインドを負うなか、同じく後半の頭からピッチに送り込まれた。マッチアップしたのは、前半から好き放題にゲームを支配していた敵の司令塔、シャビだ。
 
「彼がバルセロナでやってるという情報はあったから、ここはなんとしても止めてやろうと思ってた。万全ではないにせよ、準決勝の時よりは断然コンディションが良くなってたし、なんとかゲームの流れを変えたかった。自分のコンディションが良くて、かつ自分のタイミングでボールを獲りにいけば、ほとんど失敗することはなかった。でも、シャビにはまるで通じませんでしたね。くるくる回られたのを覚えてる。身体をガッと当てにいってもその力をうまく利用されて、回られてって感じ。なにをどうしても獲れなかった。思いっきりがっついたんやけど……。厳しかった」