1998年大会以来となるW杯予選に臨んでいた日本代表【写真:Getty Images】

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3バックか、4バックかの論争を経て最終予選へ

 日本がW杯に初出場したのは98年フランス大会。それまではアジアの壁を超えることができず、また連続出場できているものの、楽に勝ち抜けた時はない。W杯に出場するのは並大抵のことではないのだ。18年ロシアW杯へ向け大一番を迎える今だからこそ過去の激戦を振り返りたい。今回は2006年ドイツW杯予選。2002年の自国開催を経て2大会ぶりとなるW杯アジア予選に臨んだ日本代表は、幾度となく苦境に陥っていた。(取材・文:元川悦子)

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 自国開催となった2002年日韓ワールドカップは予選免除だったため、日本代表が2006年ドイツ大会のアジア最終予選に挑むのは97年以来、8年ぶりのことだった。

 この頃のアジア予選は現在よりも序列分けが明確で、日本や韓国のようなAFC(アジアサッカー連盟)上位25か国は2次予選から参戦すればよかった。2次予選は4ヶ国ずつ8グループに分かれて戦い、各組1位が最終予選へ進出。

 日本は2004年2〜11月にかけて行われた同予選でミラン・マチャラ監督率いるオマーンと同組になり、大いに苦しめられたが、初戦・オマーン戦(埼玉)で久保竜彦(解説者)が後半ロスタイムのミラクル決勝弾をゲット。苦戦を強いられた3月の敵地・シンガポール戦で高原直泰(沖縄SV)、ベテラン・藤田俊哉(リーズ強化担当)らがゴールを決めるなど、試合毎にヒーローが生まれて、順当に最終予選行きを決めた。

 2005年2月にスタートした最終予選は北朝鮮、イラン、バーレーンと同組に入った。このうち上位2位が本大会切符を手にする。5チームで2位以内を争う現行形式よりやや難易度は低かった印象だ。それでも、簡単に勝てないのが最終予選。2月の初戦・北朝鮮戦(埼玉)から日本はいきなり追い込まれる形となった。

 2次予選初戦・オマーン戦で中村俊輔(磐田)、柳沢敦(鹿島コーチ)ら体調不良の欧州組を強行先発させて失敗した教訓もあり、ジーコはこの試合では帰国したばかり中村、高原の両欧州組を控えに回してゲームに入った。

 基本布陣は3-5-2。2002年10月にジーコジャパンが発足した当初は中田英寿、中村、小野伸二、稲本潤一(ともに札幌)の「黄金の中盤」を軸に据える4-4-2をベースにしていたが、2004年春の中田のグロインペイン発症による長期離脱、同年夏の2004年アジアカップ(中国)連覇などを機に3-5-2へシフト。そのまま最終予選に突入していた。

ポジショニングを巡る衝突。主力組は控え組に敗戦

 最終予選初戦の北朝鮮戦では、中村の定位置であるトップ下に抜擢された小笠原満男(鹿島)がいきなりFKを決めて先制。指揮官の采配がズバリ的中した。しかし、後半に入って同点追いつかれ、日本は窮地に立たされる。

 そこでジーコはすぐさま高原と中村を投入。圧倒的に攻め込みながら1点が奪えないまま、後半ロスタイムに突入する。このまま勝ち点1で終了かと思われた瞬間、玉田圭司(名古屋)に代わってジョーカー起用された大黒将志(京都)が劇的ゴールをゲット。「大黒様」の異名を取る男の一撃で、日本は何とか白星発進を見せることができ、安堵感が広がった。

 だが、真の難題はここからだった。3月の第2戦はアウェイ・イラン戦(テヘラン)。このタイミングで1年間代表から離れていた中田が戻ってきたのだ。「中田は代表に必要か」「彼が戻ったら、中村と小野とどう併用すべきか」といった議論まで起きるほど、王様の再合流は物議を醸していた。

 3-5-2の場合、トップ下は1枚しかないから中田が入るとなれば、中村を外さなければならない。ジーコが講じた策は4-4-2への回帰だった。最終ラインから田中誠(解説者)を外して4枚にし、中盤は小野と福西崇史(解説者)がボランチ、中田と中村が攻撃的MF、FW高原と玉田を並べる形を採ることにし、テヘランへと乗り込んだ。

 ところが、決戦を2日後に控えた練習で1つの事件が起きる。中田と福西が守りのポジショニングを巡って口論に発展。挙句の果てには紅白戦で主力組が控え組に負けてしまった。チームの雰囲気は険悪になり、練習が終わるや否や中田が顔を真っ赤にしてバスに乗り込んでしまった。

 福西は「動きを確認しただけ」と言い放ち、加地は「ヒデさんの後ろに敵が来た時、ヒデさんが行くか、フクさんが行くかという話。フクさんが前に出てしまうとボランチのところが空くし、自分や佑二(中澤=横浜)さんがカバーすると、もっと大きな穴が出来る」と困惑を隠せない。肝心のジーコは「選手たちで決めてくれ」といわんばかりで、話し合いに参加しなかった。

ここぞで頼りになったベテランの力。空気変えた「アブダビの夜」

 結局、中田合流がチームにとって大きな波紋となってか日本はイランに1-2で完敗してしまう。相手エースFWハシェミアンに奪われた2失点は4バックのサイドが引き出され、中央のスペースがポッカリ空いた結果、生まれたもの。後から振り返ると、このイラン戦はジーコジャパンの結末を象徴するようなゲームだったのかもしれない。

 だが、予選はこれで終わらない。5日後のホーム・バーレーン戦(埼玉)に向け、立ち上がったのが三浦淳宏(解説者)、宮本恒靖(G大阪U-23監督)、福西といった選手たちだった。「このままじゃダメだ」と危機感を持ち、アサディスタジアムからホテルに帰るバスの中から話し合いを始めたのだ。

「バーレーン戦もすぐ迫っているし、こんな雰囲気じゃダメだと喧々諤々になりました。アツさんも言ったし、俺も言ったし、ヒデも言った。それでツネが1人1人に4-4-2と3-5-2とどっちがやりやすいかを聞いて、結局3バックに戻しましょうとジーコに提案したわけです」と福西は証言する。

 キャプテン・宮本は帰国便の中で指揮官に布陣変更を直談判。その要求が通り、バーレーン戦は最終ラインに田中誠を戻し、小野を外して福西・中田というダブルボランチで戦った。この試合も大苦戦を強いられたが、選手たちには落ち着きが感じられた。奪ったのはオウンゴールによる1点のみだったが、勝利には違いない。日本は立ち直りのきっかけをつかんだかに見えた。

 そのまますんなり行けばよかったのだが、6月のアウェイ・バーレーン(マナマ)・北朝鮮(バンコク)2連戦を前に挑んだキリンカップでペルーとUAEに連敗。再びチームに不穏な空気が流れ始めた。彼らは5月末から直前合宿地・アブダビへ赴いたが、そこで立ち上がったのがまたもやベテランだった。

「『アブダビの夜』って言われてるミーティングを開いたんですね。アツさん含めて1つにまとまらないといけないという機運が高まってね。それでツネが全員を呼んで、リラックスルームに集まったんです。みんなで輪になってイスに座って、最初にアツさんが力を込めて言いました。『オレはワールドカップに行きたいんだ』と。

 オレも『だったらベンチのやつも一緒に戦わなきゃいけないだろう』と続けました。その後、1人1人が考えていることを喋りました。代表でそんなことをやったのは初めて。でもみんな思いを吐き出して、すごく一体感が高まったんじゃないかな」と福西は12年前に思いを馳せる。

 やはりベテランの力はイザという時に大きな意味をもたらす。そこは誰もが肝に銘じておくべき点だ。

選手同士のぶつかり合いが多かった最終予選

 バーレーン入り直後、ジーコは小野をボランチに入れ、2列目に中村と中田、FWに柳沢を入れる秘策をテストしたが、小野がいきなり負傷。中田をボランチに下げ、小笠原を2列目に入れざるを得なくなった。

 この混乱も、アブダビの夜に生まれた結束があったら乗り越えることができた。バーレーンとの大一番で値千金の決勝弾をたたき出したのも突如チャンスが巡ってきた小笠原。そんな偶然の巡り合わせも日本を力強く後押しした。

 この5日後の最終戦・北朝鮮戦は、北朝鮮で起きた暴動のため、中立地・バンコクでの開催となり、しかも無観客試合だった。無観客試合と言っても、関係者が多数スタンドに陣取っていて、どこか緊張感のない状況下での試合だった。仮に平壌開催だったら、こんな空気ではなかっただろう。

 このAFCの決定もチームを後押しし、日本は柳沢と大黒のゴールで2-0と快勝。終わってみれば、勝ち点15で同13のイランを上回って1位通過を果たした。

「ジーコジャパンは本当に個性の強い選手の集団だった」と後に加地が漏らしたことがあったが、選手と監督、あるいは選手同士のぶつかり合いがこれほど多かった最終予選も珍しい。

 逆に言えば、今はそれだけの発言力のある選手が少ないということだ。川島永嗣(メス)や長谷部誠(フランクフルト)らベテランの統率力も重要だが、彼らやハリルホジッチ監督に物申せる若手が出てきてこそ、日本はもう一段階強くなれる。小林祐希(ヘーレンフェーン)のようなキャラクターは貴重だ。彼らの今後に期待を寄せたい。

(取材・文:元川悦子)

text by 元川悦子