Tomoro氏

写真拡大

 六本木で「KING」と呼ばれる男がいる。六本木界隈で知らない人はいないといっても過言ではないKING・TOMORO氏の正体は、実業家でありアーティストである。23歳で六本木ヒルズに事務所を構え、“最年少ヒルズ族”といわれ、制作会社や広告代理店、飲食店の経営・運営などを手掛けてきた。現在は六本木、新橋を中心に飲食店を営むほか、さらに新規店が2店もオープン間近だという。

 またTOMORO氏は、プロデューサーとしても敏腕をふるい、May J.など有名なシンガーとの楽曲リリースのほか、明日花キララをプロデュースし、デビュー曲でUULAランキング初登場1位獲得という快挙を成し遂げた。TOMORO氏のソーシャルネットワーキングサービス(SNS)アカウントを見ると、勝ち組の華やかな日常が覗けるが、本人に曰く「道半ば」だという。TOMORO氏のビジネスの全容とこれからについて話を聞いた。

●夢は世界征服

 TOMORO氏は1986年、北海道・小樽市に生まれ、その後、札幌で育った。小学校の卒業文集には、夢は「世界征服」と書いた。誰に教えられたわけでもなく、子供の頃から「男に生まれたからにはてっぺん取らなきゃ!」と思っていたという。小学校のときには、「太平洋制覇」と書いた書き初めで受賞してしまうなど、子供の頃から目立つ存在だった。

 札幌では、家族4人で古い2DKのアパート暮らしをしていた。当時、高層マンションが建ち始めた頃で、高層マンションに住む友達を「うらやましい」と思ったそうだ。そして「絶対、金持ちになってやる」と誓ったという。

 中学時代、学校ではバスケットボール部に入りながらも野球部の仲間とつるみ、毎日野球の練習に明け暮れた。毎週のように試合を組んで、中学時代に放ったホームランは合計72本。TOMORO氏も周りもプロ野球への道を考えた。

 そして野球の名門校である神奈川・横浜高校に入学したが、そこで初めての試練を味わった。TOMORO氏が入学した当時、横浜高校野球部には、現在もプロ野球で活躍する石川雄洋選手、成瀬善久選手、涌井秀章選手などがいた。全国レベルのチームメートに負けまいと、毎日早朝から夜中までがむしゃらに練習に励んだ。1年間、限界までがんばったが、超一流の選手たちとの実力の差は縮まらず、プロへの道は無理だと完全にあきらめた。

 もちろん、大学野球、社会人野球と進む道もあったが、TOMORO氏が目指したのは「世界制覇」であり、会社員になるつもりはまったくなく、その時点で野球はきっぱりとやめた。TOMORO氏は、野球をやめた次の日から街へ出た。

 昭和の文化が残る当時は、横浜のビブレ周辺に若者がたむろし、良くも悪くも活気があった。TOMORO氏が横浜の繁華街に現れ、あっという間に街でたむろする若者たちを魅了しまとめ上げたことは横浜の伝説となっている。TOMORO氏は、当時をこう振り返る。

「当時16歳でしたが、街に出て2カ月くらいで120人の部下ができたんです。120人のネットワークは“熱い”と思い、その人脈を利用し、僕自信がデザインしたTシャツを販売したり、服の転売などを始めました。思った以上にうまくいき、さらにイベント企画やチケット販売などでお金を稼ぐことをどんどん覚えて、かなりの利益が出ました」

 順調な時は1日で数百万円を手にすることもあったというから驚きだ。大金を手にしたTOMORO氏は、友人や先輩と共に高級車やVIPカーに乗ってナンパに出かけるなど、遊びも高校生らしくなかった。しかし、そんな日々を送りながらも、高校は無遅刻無欠席で卒業し、理工系の中で人気の高い芝浦工業大学へ進学した。

●大学卒業翌日に会社設立

 大学1、2年次は校舎が埼玉にあったため一人暮らしを始めたが、高校時代に始めたアパレル販売が順調だったので、暇があれば海外を飛び回っていた。ヨーロッパ各国、米国、中国など好奇心の赴くまま常に新しいものを探求していた。

 そんなある日、洋服の売れ行きが落ち始めた。当時、TOMORO氏が販売していたのはB系のアパレル商品だった。ダボダボのB系ファッションが一世を風靡したが、流行が変わり始めたのだ。その結果、多くの在庫を抱えてしまい、アパレル販売はそこで終止符を打った。

 その後は、イベントのフライヤーやポスターをつくる仕事などで月に20万円程度の利益を出しながら大学卒業の時期を迎えた。大学卒業を前に、就職を決めていく友人たち。「自分の進むべき道は何か」と考えたTOMORO氏は、会社を興すと決めた。

 大学を卒業した直後の2009年4月1日、資本金100万円で会社を設立した。会社設立は、渋谷で会社を営む知り合いのオフィスの一角を月2万円で間借りしての登記だった。しかし、先輩の社長から「資本金100万円の会社じゃ何もできないだろう」とアドバイスされ、借り入れすることを決意した。

 普通なら22歳の若者が銀行から借り入れをするのは容易ではないが、人脈に助けられTOMORO氏は国民政策金融公庫と銀行から投資を受け、さらに投資家からも出資してもらい、計2600万円を準備することができた。その資金の一部で東京・亀戸(現在は規模拡大につき錦糸町に移転)に「ライブハウスyanagi」をオープンした。昼は貸しスタジオ、夜はライブハウス、深夜はクラブとして3部営業し、四十数坪のハコは予想以上に大幅な利益を上げた。

●人脈づくりと資金調達の天才

 ライブハウスyanagiの成功をステップに、六本木への進出を決めたTOMORO氏は当時23歳だった。飛ぶ鳥を落とす勢いで勝負に出たTOMORO氏は、63坪ワンフロアでの「クラブ KING LOUNGE」のオープンに動き出した。大理石の内装の高級店は、共同出資者との経営の予定だった。

 しかし、工事が始まってもその共同出資者がお金を用意できず、マイナスからのスタートとなり一気にどん底へ落ちた。運営的には毎月黒字だったにもかかわらず、トラブル続きで、オープンから3カ月で店を閉めた。

 それでも、23歳で六本木に63坪の高級店をオープンさせたということで六本木の経営者たちから注目され始めた。そして、ヒルズ族の先輩の一人が「TOMOROは才能があるから、もう一度やってみなよ」と、新しい投資家につないでくれたのだ。

 その投資家が開店資金を出し、「KING BAR」を六本木交差点にオープンした(現在は六本木5丁目に移転)。TOMORO氏は、前回の失敗の経験から、KING BARでは無駄なものは一切省こうと考え、オープン当初は人件費削減のために自らバーテンダーとして店に出た。それが功を奏し、多くの新たな人脈ができた。

 そしてKING BARが軌道に乗り始めた頃、昼間は制作会社に力を入れ、夜の人脈を昼の仕事につないだ。夜の店を経営することで人脈を広げることができると実感したTOMORO氏は、店の数をどんどん増やし、一時は10店舗以上に拡大させた。

 TOMORO氏は、人脈をつくることは天才的といえる。投資家などの富裕層に気に入られるために、TOMORO氏はすべてに全力で真心を尽くすという。たとえば、誕生日にはモデル級の女の子や芸能人を乗せたリムジンで迎えに行き、相手の好きなもの尽くしで祝うなど、相手が味わったことのないようなド派手なサプライズでもてなす。相手との信頼関係を築いたら商談へ進む。

 おかげで、昼も夜も経営は順調だったTOMORO氏だが、借金が莫大に膨れていたことに気づいていなかったという。

「何気なくお金の流れを見ていたら、借入金などの返済額が月に2000〜3000万円もあるということに気づいたんです。なぜ、こんなに毎月返済しているんだろうと思って、借り入れの総額を確認したところ2億3000万円以上あったんです。このままではいけないと思ってお台場や渋谷などの店を売ったり、あの手この手でやり繰りして、全額キッチリ返済しました」(TOMORO氏)

●己が変われば周りが変わる

 2億円以上の借金を整理、完済した頃のTOMORO氏は26歳。人生の転機となった時期だという。それまでのTOMORO氏は、仕事も豪快なら遊びも豪快だったという。毎日、高級ホテルのスィートに転々と泊まっていた。

「いつも、女の子が何人も部屋にいました。僕の私服は、裸にバスローブを着るだけ、高級葉巻を吸って、好きな時に好きなように女の子とも遊びました。友達や後輩が来れば『遊んでけ』と場所を開放していました。ジャグジー風呂にドンペリやクリスタルを入れて“シャンパン風呂”とかいって遊んでいました。

 毎晩の食事にも金粉をかけて食べたり、若い女の子は手に余るほど寄ってくるし、日本一遊んでいる男だという自覚がありました。遊びに関しては、僕よりイケてる人は見たことがないです」

 TOMORO氏はこのように語り、豪快に笑う。

「しかしある時、『このままではただの遊び人で終わってしまう。夜の世界に染まってしまう。自分が目指すところはもっと上だ』と目が覚めました。やっぱり、自分がちゃんとしていないと、周りも同じような人が集まるんですよね。僕は、以前は金髪でしたが、髪も黒くして自分自身を変えて、良くない人脈を完全に切りました。まずは自分を変えたんです。その結果、周りも変わりました。今ある人脈は、上場企業の社長、会長や人間国宝の先生、文化人、著名人など素晴らしい方々がたくさんいます。金髪オールバックにバスローブで遊んでいたときの僕なら相手にしてもらえなかったと思います」(同)

●芸能人として自身をプロデュース

 現在、TOMORO 氏が手掛ける制作会社、広告代理店、飲食店の経営・運営やプロデュース業は順調だが、今後は自身の芸能活動に力を注ぐつもりだという。これまでもCDのリリースやテレビ出演などは数多く、年間で150本以上もライブ出演していた時期もあるなど、アーティストとしての実績はあるが、メインの仕事としてはいなかった。

 だが昨年、日本舞踊を始め、初舞台を踏んだこともあり、ますます芸を磨きたいと思うようになった。日本の芸能界で地位を確立し、その後、世界のエンターテインメントの業界に「日本の侍」として踏み込んでいきたいと考えているという。

「僕は、どこへ行っても物怖じしない。僕には度胸しかないんですよ。緊張とか生まれてから今まで一度もしたことはないですね。海外では、日本人は『自己主張できない』『自分の意見が言えない』などと言われますが、僕が日本人のイメージさえも変える存在になりたい。唯一無二で素晴らしい日本の文化、伝統、歴史を、エンターテイメントという風に乗せて世界中に広めていきたい」(同)

そんなTOMORO氏には芸能界も注目しており、テレビ出演が多数控えているという。

「“出る杭は打たれる”のが日本社会の常。でも僕は、『打たれた分だけ強くなる』『踏まれた分だけ大きく伸びる』と考えている。だから、あっという間にここまでこられたし、これからも成長し続けます。僕は、小さい頃から嫉妬され続ける人生です。幼稚園の時、女の子から人気があって、周りの男の子からよく嫉妬されたんですが、その頃から現在に至るまでずっとそうなんです。

 派手にしていると、嫉妬する人間や、邪魔してくる人間が増えていきます。でも、それは僕にとっては面白いことでしかないんです。嫉妬されるということは、僕を認めているってことだから、気になりません。むしろ、もっともっと派手にするんです。本当の大物や、器の大きい人間は、僕みたいなヤングジェネレーションを見ると面白い奴だなって可愛がってくれます。だから、そういう本物の人としか僕は付き合いをしないようにしています。おかげで、たくさんの立派な先輩方に可愛がられて、ここまでやってこられました。

 同様に、才能がある後輩は、僕は育ててあげたいと思うんです。良い投資家を紹介したり、必要な人材をつなげてあげたりして力になってあげます。僕も多くの人に助けられたから、僕も目立ちだした後輩たちを育てて伸ばしていきたいんです」(同)

 このようにTOMORO氏は楽しそうに語る。今年後半から、テレビ番組をはじめとしたメディアでTOMORO氏を見かけることが多くなるだろう。今後の活躍が楽しみだ。
(文・取材=道明寺美清/ライター)