写真提供/大原政光氏(大原麗子さんの実弟)

 2009年8月に流れた女優・大原麗子(享年62)の突然の訃報、それも死後3日経ってから発見されたという悲しい最期は日本中を驚かせた。それから8年という月日が経過したが、毎年命日が近づくと、メディアはこぞって彼女の特集を組む。可憐な美貌と独特の甘い声とともに、「国民的女優」として多くのファンの印象に残っている。

 彼女は、なぜ淋しい死を迎えたのか。デビュー当時からのマネージャーで、亡くなる直前まで寄り添っていた佐藤嘉余子氏(81)が、これまで明かされなかった大原との40年間、そして“孤独死”の真相を初めて語る。

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 早いもので、麗子さんが亡くなってから今年の8月3日で8年を迎えました。

 麗子さんのことが語られるとき、「孤独死」という言葉がよく使われます。離婚を繰り返して、仲の良かった人々も離れていって、1人寂しく死んだというような報道も目にしました。

 でも、実はそうではないんです。私自身、傘寿を超えて、もう先が見えてきた。生きているうちに、麗子さんが歩んだ足跡や語られなかった彼女の姿を世間の人に伝えるのが私の仕事かなと思い、今回お話しすることにしました。

〈大原は2004年以降、テレビなどの表舞台から姿を消した。それから2009年に亡くなるまでの約5年間、そばに寄り添った人物が佐藤氏だった。40年の長きにわたり、大原を公私ともに支えてきた佐藤氏は、その最期が「孤独死」というネガティブな響きの言葉でしか語られてこなかったことに、もどかしさを感じていたという〉

 亡くなる6年ほど前、彼女と同居していた時期があったんです。そのころ、彼女の衣裳部屋の壁には『孤独な鳥の、5つの条件』という詩が貼ってありました。サン・ファン・デ・ラ・クルスというスペインの詩人が書いたその詩を彼女は毎日眺めていたんです。

【一つ 孤独な鳥は高く高く飛ぶ
二つ 孤独な鳥は仲間を求めない、同類さえ求めない
三つ 孤独な鳥は嘴を天空に向ける
四つ 孤独な鳥は決まった色をもたない
五つ 孤独な鳥はしずかに歌う】

 普通の人だったら毎日見るような詩じゃないでしょう。この詩は麗子さんの生き様そのものなんです。

 亡くなる2年ほど前から、麗子さんは「カヨさん、私は死ぬときにはスーッと消えて、そのままいなくなりたい」って言うようになりました。

 彼女は孤独に追い込まれたのではなく、自ら「孤高」を選んだのです。

〈2人の出会いは大原がデビューした翌年、1965年に遡る。当時19歳だった大原は可憐なルックスからは想像できない勝気な性格で、9人の男性マネージャーたちを散々振り回した。ついには台本を届けるスタッフもいなくなった。そこで所属事務所で唯一の女性マネージャーだった佐藤氏が担当となったという。以来、大原が事務所を移籍しても専属マネージャーとして行動を共にし、実の姉妹のように寄り添ってきた〉

 女優としては初めから天性の才能を持っていました。音に敏感で、音声さんも気づかない雑音に気づいて指摘することもありました。

 映画『尼寺(秘)物語』(1968年)では、中島貞夫監督に「裸になれ!」とずいぶん言われていました。裸を安売りする気はないから「簡単に脱いでたまるか!」と監督にタンカを切ったんですよ(笑い)。芯の強さを感じましたね。

◆「一緒に住んで」

〈女優とマネージャー以上の濃密な関係を続けてきた2人だが、一時期だけ、絆が途切れたことがある。大原が主演したNHK大河ドラマ『春日局』終了後の1990年、佐藤氏はマネージャーを辞した〉

 そのころ麗子さんは舞台に夢中だったんです。でも彼女は日本舞踊など、舞台に必要な稽古を積んでいなかった。だから舞台から落ちて骨折したり靭帯を切ったり、体を壊しながら演じていました。

 そんな麗子さんを見ていられなくて、私は舞台に出ることに大反対したんです。それでも彼女は「舞台には魔力がある」と譲らず、「なら、もういい」となってしまったんです。

 お互いに連絡することもなく、月日が過ぎていきました。ところが約10年後の1999年、いきなり麗子さんから電話がかかってきたんです。「カヨさん、私、病気になっちゃった」って。以前発症していたギラン・バレー症候群(※注)が再発していたんです。

【※注/感染症などがきっかけで発症する末梢神経の疾患のこと。手足や顔面の筋力が低下し、激しい痛みを伴い歩行困難を引き起こす難治性疾患】

 それは大晦日の夜でしたが、声が地獄の底から出てくるような、聞いたこともないような低い声で……。心配になって日が明けた元旦、彼女の家にタクシーを飛ばしました。

 その後、同居を頼まれたんです。勝ち気だった麗子さんが、かなり憔悴していて、「一緒に住んでくれたら一番いい」と何度も言うのです。

 同居生活では、私は料理がからきしなので、食事は麗子さん担当になりました。私が外出先から帰ってくると「お帰りなさい」といって麗子さんが手料理を出してくれる。じゃこを使った料理などを振る舞ってくれましたが、それがとても美味しくて。嬉しかったなぁ。

 でもささいな生活習慣の違いから喧嘩になってしまって、5か月で同居は解消してしまいました。その後も連絡は頻繁に取っていましたが、麗子さんはみるみる衰えていきました。

 そんな中でも女優としてのプライドを捨てなかった。亡くなる1年ほど前、「具合が悪くなったから夜中に救急車を呼んだ」って電話してきたんです。

 それだけでもびっくりなのに、もっと驚いたのは「自宅から徒歩5分くらいの場所を指定して這って行った」って言うんですよ。思わず「何考えてるのよ!」と声を荒げたら、「女優だから家がバレたらいけないと思って……」と。「大原麗子の家なんて、近所中みんな知っているわよ!」って叱ったこともありました。

◆スイカの切れ端

〈亡くなる前年の11月、大原が自宅で転倒したころから、急に連絡が途絶えたという。2009年8月6日、大原の弟・政光氏からの電話で、佐藤氏は彼女の死を知ることになる。死因は不整脈による脳内出血で、すでに死後3日が経過していた。〉

 彼女の家の冷蔵庫を開けると、お中元で送られてきたスイカの切れ端が2個半だけ残っていました。

 これを見て淋しさや悲しさを感じる一方で、私は、“ああ、麗子さんは天寿を全うしたんだな”とも思ったんです。体力の限界を悟って、「スーッと消えていく」という願いを本当に実行しようとしていた。だから冷蔵庫の中に、もらいもののスイカ以外に自分で用意したような食料がなかったのだと思います。

「孤高」を求めた麗子さんらしい旅立ちでした。

●聞き手/宇都宮直子(ジャーナリスト)

※週刊ポスト2017年9月8日号