永田町2丁目には、政財界の大物や高級官僚、地方の有力者らが列をなして訪れ、官邸以上に強い磁場が働く3つのビルがあった。

 ノンフィクションライターの常井健一氏が、さまざまな政治ドラマの現場となった「権力の三角地帯」をルポする。

(文中敬称略)


出典:「文藝春秋」2017年8月号「50年後の『ずばり東京』 永田町『権力の三角地帯』を行く」・全3回

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 雑誌の記者は国会議事堂の中を歩かない。それは伝統的に記者クラブから排除を喰らっているからではない。新聞やテレビが報じる建前よりも本音に迫り、活字に残すのが生業だからだ。おのずと永田町でも“裏道”を歩くことが日常になる。

 議事堂の裏には首相官邸と衆参の全国会議員が拠点を置く議員会館が3棟並んでいる。その裏口を出たところに人通りの少ない2車線の道路が300メートルほど走っている。多くの議員はその道を使い、車で2分の場所にある宿舎から通っている。

 一帯にはオフィスビルが3棟、ホテル1棟、マンション1棟、民家らしき建物が9軒、酒屋と日本料理店と交番が1つずつ並ぶ。その裏手の丘には、日枝神社の境内と都立日比谷高校の校庭が広がっている。

 住所で言えば、東京都千代田区永田町2丁目。ビルの谷間に10年近く塩漬けにされた土地があった。そこがフェンスで囲われたのは、昨年のこと。標識看板にはこうある。

〈建築物の名称 (仮称)アパホテル国会議事堂前駅前〉

 テレビCMでおなじみの会社だが、「アパ」とは一体何の意味なのか――。そんなことをふと思い、まず裏山の向こうに聳える本社を訪ねた。

「JAPANと書いて真ん中を見てみなさい。『A・P・A』でしょう」


アパグループ代表・元谷外志雄氏 ©文藝春秋

 高そうな壺が並ぶ豪奢な執務室の中で、黒いマオスーツに身を包んだホテル王は真顔で即答してくれた。アパグループ代表の元谷外志雄だ。

 でも、どうして永田町に作るのか。元谷は机に広げた都心の地図にペンで三角形を引きながら続けた。

「永田町こそが日本の中心。権力が集中する一等地ですよ。APAの理念と一致するんじゃない。そこに我がホテルチェーン7万室の中でも日本最高級のランドマークホテルを作る。1984年に石川県から東京に進出して以来考えてきた戦略です」

 経営理論の「ランチェスターの法則」では、まず3つの拠点を築き、三角形の面ができたところで、その市場を制圧する最終目標を中心に定める。元谷の場合、新宿、六本木、日本橋の3地域に9棟ずつ構えると自然と永田町が浮上したという。

「ちょうど良い土地が競売に出ていた。これはいくら高くても買わなくてはいかんと思って、一帯の通常価格の3〜4倍、数百億円は必要かなと。これまで買った中では一番高かったけど、いつも通り現金払いです。儲けを考えたら買えないけど、アパのブランド価値は必ず高まる。『いくらでも出せ』と指示しました」

 競合は日本財団とも囁かれたが落札。ホテルは500室で2019年開業を目指している。官邸からヘリが飛び立つ関係で高さ規制が課されるため、17階建てに止めたという。

「国会議員を相手にオフィスや宴会場を貸しても割に合わないから、ホテルに集中しますよ」

一致団結箱弁当を合言葉に

 彼が手にした土地には“怪物”や“黒幕”と呼ばれた政財界の大物が居座るビルが10年前まで存在した。

 永田町TBRビルだ。トウキョウ・ビジネス・レジデンスの略で、地上11階、地下2階。創建時は職住一体型の風呂付き物件として貸し出されたが、公共事業や規制産業に関係する企業や族議員が借りた。

 自民党のベテラン秘書が語る。

「昔話だけど大蔵省出身の政治家の場合、若手でも役所から金融業界のパトロンを紹介されて部屋を借りた。彼らが業界とのパイプ役を担って省益を守る仕組みがあったのさ」

 TBRの主は何といっても竹下登だ。「目配り、気配り、金配り」の三拍子で、地方議員出身者初の総理になったと語り継がれる。87年の総理選びの前、401号室の事務所に若手を呼んではこう説いたという。

「田中角栄さんには『金は一対一で渡せ』、佐藤栄作さんには『相手が受け取りやすい状況で渡せ』と教えられた。どちらも一理あるな」

 自民党最大派閥を誇った経世会(竹下派)の後継組織「平成研究会」で事務総長を務めた久間章生は、30年以上前の出来事を述懐する。

「私は『へー、人によって違うんですね』と言ったのを覚えている。竹下さんはどうするかと思ったら、選挙前に人を介して上手に渡してきた。2000万円かな。総理になるのに80億も配って金庫を空にしたんだ」

 一致団結箱弁当。それを合言葉に彼を支えた小渕恵三や梶山静六、渡部恒三ら経世会の面々、海部俊樹や森喜朗ら早大雄弁会の後輩もTBRに拠点を構えた。94年からは平成研も7階に本部を置いた。

 TBR跡の傍に赤煉瓦のビルが2棟ある。「パレロワイヤル永田町」と「十全ビル」だ。経世会最盛期の90年前後、前者に金丸信、後者に小沢一郎という同会の両巨頭が拠点を構えた。3つのビルには腕利きの記者だけでなく、財界の大物や高級官僚、地方の有力者らが列をなして訪れ、官邸以上に強い磁場が働いた。

 金丸、竹下、小沢は「血」で結ばれていた。金丸の長男と竹下の長女が結婚し、小沢の妻と竹下実弟の妻は姉妹だ。そんな閨閥にモノを言わせた経世会支配の時代、政界では竹下を「TBR」、金丸を「パレ」、小沢を「十全」と呼び、一帯は「権力のトライアングル」と恐れられた。


「三角地帯」へと到る道。右手には3棟の議員会館がある。 ©iStock.com

第3の議員会館

 三角地帯から議事堂に延びる200メートル弱の上り坂は「山王坂」と言う。元々は日枝神社の表参道で大昔は坂の上に鳥居があった。夜は星が輝き、一帯は「星岡」と呼ばれた。

 議事堂は20(大正9)年に建設が始まり、36(昭和11)年に完成した。パレの向かいの鰻料理店「山の茶屋」は10年連続でミシュランの星に輝く名店だが、その建物は国会よりも古く18年に鬱蒼とした森の中に創業。数年後には北大路魯山人の「星岡茶寮」、京都南禅寺「瓢亭」などが開業し、赤坂の花街とは一風違う賑わいを見せた。ところが、戦災で大半が焼失してしまう。

 戦後、トタン屋根の家々と原っぱが広がった界隈に、東急が星岡茶寮の跡地へ東京ヒルトンホテル(地上10階建て・後のキャピトル東急ホテル)を63年にオープン。65年には不動産会社の秀和が隣にTBRを建てた。74年、「気」の神秘を説いた宗教家の河野十全は新橋の料亭「小松」を売った金で老舗料亭「八百善」を十全に、77年、長谷川工務店が昭和の名優・長谷川一夫の営む料亭「賀寿老」をパレに建て替えた。


十全ビル ©文藝春秋

 地上10階建ての十全は60〜90平米の事務室が並ぶが、当初はTBRと同じ風呂付きだった。同11階建てのパレは玄関が自動ロックでコンシェルジュが常駐する億ションの先駆け。開館当時の広告によると、5720万円(2LDK)から2億円(4LDK)で分譲された。

 十全の2代目オーナー、河野哲丸は古びたビルの最上階でこう語る。

「できてすぐに『第3の議員会館』と呼ばれるようになりました」

 65年完成の旧議員会館(地上7階建て)は、1議員当たり2部屋の40平米。現在(同12階建て)の3分の1だ。10人も座れば満員、話し声も筒抜けで密談に適さない。だから、財力のある議員は国会の外に事務所を置いた。永田町の住人はこうした部屋を「外(そと)事務所」と呼んだ。

 自民党政治は70年代まで、田中角栄や中曽根康弘の砂防会館や福田赳夫の側近が集う赤坂プリンスホテルに権力が集中したが、竹下、安倍晋太郎、宮澤喜一の「安竹宮」と呼ばれる80年代のニューリーダーは永田町2丁目に拠点を築いた。三角大福時代の中心が国会の北側だったとすれば、後を追う新興勢力は西の“秘密基地”で力を蓄えていった。

 バブル期の90年前後、界隈は浮足立った時代の象徴でもあった。

「弱ったな……」

 金丸はパレ6階の605号室でそう呟いた。中曽根の衆参ダブル選挙を党幹事長として大勝利に導き、田中派を一緒に飛び出した竹下を総理に押し上げ、「キングメーカー」の異名を恣にする。その彼でも、急にぽっかり予定が空く日があった。

「昼間から飲むわけにはいかんしなぁ……。麻雀でもやるか。おい、ちょっとテレビをつけてみろ」

 秘書に言って、テレビのチャンネルをNHKの国会中継に合わせる。それを見ながら、金丸が指を差す。

「アイツがいるから呼び出せ」

 秘書はその議員の事務所に電話をする。議員が画面からスーと消える。数分後には金丸と雀卓を囲む。

「私も委員会が退屈で、眠くてたまらなくて、ちょうど抜けるタイミングを見計らっていたんですよ」

 そんなおべっかを聞き流しながら、金丸は手牌と睨めっこするのだ。


麻雀はコミュニケーションツールだった ©iStock.com

 87年からは6階に加え、11階の部屋を借り始めた。パレの2LDKの中古物件が競売で8億8000万円の値がついたと報じられた頃だ。その倍の広さの最上階を、羽振りのいい地元の不動産屋が所有していた。

 金丸がそこに全自動麻雀卓を置くと、昼の国会や夜の宴会を抜け出した面々が現金を握って集まった。経世会、中曽根派、河本派、宏池会……各派が呉越同舟で卓を囲んだ。

 1人が「客と会ってくる」と言って抜けてもいいように点棒は使わず、1翻1万円、満貫4万円などと計算する。わざと負けて間接的に献金をし、貸し借りを作る者もいた。

「麻雀だけで外事務所の家賃を稼いじゃう強者もいたよ」(参加者)

 当時、麻雀は永田町の代表的コミュニケーションツールでもあった。役人が加わり、予算や人事の話題に花が咲くこともあった。

「よほど信頼できる人とじゃないとやらない。当時はパレで麻雀するようになったら、永田町でも一人前と認められたようなもんだ」(同前)

 携帯電話がない時代でもあった。オヤジの行方探しに苦労する秘書たちには「あそこかな」と見当がつきやすく、三角地帯に点在する麻雀部屋の存在は有り難かったという。

(常井 健一)