『ひよっこ』を語るとき、時折出てくるのが、みね子は自分の言いたいことをなぜ言えないのか?という話題ではないだろうか。

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 確かに、みね子はほかの朝ドラヒロインとは違い、「私は〇〇になる!」とも言わないし、成功した女性の一代記を描こうとしているドラマでもないから、そういう女性が持っているとされるような強さも描かれない。だからこそ、ほかの作品を基準にすると物足りないという人もいるだろう。

 しかし、見ていると、みね子にはみね子の一本通った筋があるようにも見える。また、女性が言いたいことが言えるという状況をストレートに描くということだけが正しい物語の在り方だとも思えないのだ。

 例えば、雇用主と労働者とか、威圧的な夫と妻など、支配や被支配の関係性が完全にできあがっている場合、単純に被支配側の人間が意見を言うと、生活が危うくなるという危険も生じる。もしもそんな状況でもはっきりものが言えるというのであれば、その関係性を捨ててもなんとかなる場合であったり、弱きものであることからこそ、まともにとりあわれず、戯言として多めに見てもらえる場合であることが多いだろう。前者には恵まれた環境があるし、後者では関係性の中にある甘えを利用しているともとれる。

 そうした構造を無視して、どんな場合でも、なぜ言いたいことが言えないのだと問うのであれば、言えない立場にいる人への想像力がちょっと足りないのではないかとも思ってしまう。

 ただ、みね子の場合は、そうした力を利用するような悪い人物が周りにはいないから、もっと自由に自分の主張をしてもいいのかもしれない。裏を返せば、力を利用するような登場人物がいないからこそ、みね子が言いたいことを言わないキャラクターになっているということはあるだろう。

 このドラマでみね子以外の登場人物には、言いたいことを言える人が多い。それは権力に対して意義を申し立てるキャラクターというよりは、性質として率直なのだと言う風に見える。みね子の親友の時子(佐久間由衣)、あかね荘の住人の早苗(シシド・カフカ)、すずふり亭の料理長の娘の由香(島崎遥香)は、エネルギーに満ちて言いたいことを言える強い女性たちだ。

 そんな、みね子よりも強いキャラがたくさんいる中で、あえてみね子を主役にしたということは、当初の目的である、なんでもない女の子を描くということと、なんら離れていない。

 現実社会でも、声を大にして発言する女性たちにばかり焦点が当たりがちである。しかし、そうではない人たちのほうが世の中にはずっと多いのだ。抑圧の中で生きている女性たちは、もっと解放されるべきとは私自身も思うが、解放されるには、多大なエネルギーがいるし、性格も関係する。その方法がわからず、少しずつ模索している人だって存在するだろう。みね子はそっち側の人物である。

 ただ、みね子はこうした視聴者の疑問にそろそろ答えを出そうとしている。時子、早苗、由香、みね子の4人がバー月時計に集まったとき、由香から「いろいろつらいことあっても耐えてさ、我慢して我儘いわないで、一生懸命働いて、つらいこと自分の中にため込んで、けなげで、でもにこにこしててさ、自己主張しないっていうか、なんていうか、そういうの嫌なのよ、もう嫌だ、もう無理だって投げ出してほしいのよ私は」と言われるシーンがある。

 それに対してみね子は、「時代とか自由ってわかんない」「自由ってなんですか、好き勝手生きることですか」「自由って自分で選ぶってことでしょ」「自分で選んだんです。それは自由とは違うんですか」と答える。

 これも、ともすれば抑圧ととられるかもしれないが、根底にはみね子の、人の何かを犠牲にしたり、無理してまで、自分の幸せを追求したくはないということがあるのではないか。人を犠牲にすれば、自分の心にも何かしらのモヤモヤが残って、ちゃんと幸せに過ごせないという気持ちの表れなのではないかと思えるのだ。

 第22週では、それでもかなり変化が見られた。出前で訪れたテレビ局では、父親が記憶喪失の間にともに過ごしていた女優の節子(菅野美穂)と再会。そこで思いをはっきりと伝えると、みね子は節子から「こんなにはっきりものを言うこだったっけ?」と言われるのだ。

 私自身からすると、今までも、みね子が何も物言わぬヒロインには見えなかった。物語というものは、強烈な人や強い女性を描くほうが、はっきりと面白いものになりやすい(と思われてきた)。この『ひよっこ』の中でも、みね子と島谷の恋を描いた坪内と新田の漫画に対して、編集者から「中だるみしている」と指摘されたというエピソードがある。それを聞いたみね子が「人の人生に中だるみってなんですか!」と怒るのだ。これは、物語の派手さのために無理に事件を起こしたりキャラクターを動かすものではないという思いが込められているように思う。

 強くてエネルギーに満ちてキラキラしていて、自分のことだけを見ていればよいという環境に恵まれた女性の姿だけが、正しい女性のロールモデルであるとだけ描かれることにもモヤモヤが残る。それは、理想であって、現実ではない。みね子のように、地に足をつけて、目の前にある仕事をして、自分で人間関係を築いていくことだって重要なのだ。

 派手な出来事はなくても、模索しながら生きている人を描くということがこの作品の当初の目的だ。一方で、自分の意志を持ち強く生きようともがいている女性のことも否定はしていない(というか、誰のことも否定していない)。第22週では、みね子は少しずつ自分を出していく。それは、当時の女性たちを解放した「ツイッギーのミニスカート旋風」とともに描かれるのだ。(西森路代)