飛ぶ鳥を落とす勢いで成長しているアイドルグループ・欅坂46と、昨年『毒島ゆり子のせきらら日記』で初のテレビドラマ脚本を担当し、向田邦子賞を受賞したことで俄然注目されている矢島弘一がタッグを組み、地上波で連続ドラマに挑む。まずこれだけで十分に期待できる要素は揃っていた。しかしこのドラマ、何かが変だった。

参考:欅坂46・鈴本美愉、担任教師に恋をする?

 アイドルグループが主演するドラマとしての娯楽的な側面がある一方で、大衆批判的な描写がこのドラマ全体に蔓延っていて、前者を期待して見始めると後者に妨害され、逆に後者に注目してみると前者の要素によって居心地の悪さに襲われる。この作品の見どころはいったい何処なのか。暗い顔をしたアイドルなのか。あるいは、事あるごとに同調する生徒たちに対して、一斉に暴言を浴びせかける観客たちの方なのか。

 確かに、欅坂46というグループはこれまで”アイドルとして魅力的であること”と”世相を斬ること”を両立してきたグループであった。「サイレントマジョリティー」や「不協和音」のように、社会に対して強く反抗する姿をずっと打ち出してきたし、それは前例にないほどの大成功を収めてきたわけで、しかもそれをパフォーマンスすることによって彼女たちの表情がより一層輝くという化学反応も確実にあったはずだ。しかし、このドラマにおいてはそうした魔法は起きなかったようだ。このドラマにおける彼女たちには、単に硬直した表情という印象しか抱かない。唯一輝いていたのは「膝小僧、膝小僧、大接近!」の小林由依くらいだろう。

■前半部に表れる作り手の独特の態度

 前半は、”いいね!”に群がる生徒たちの無個性な様子が、なかば皮肉を込めたタッチで描かれる。生徒たちがなぜ閉じ込められたのか、脱出ゲームの目的は何なのかといった部分は描かれない(最終話で取って付けた様に明かされる)。それよりも重点的に描かれているのは、脱出するために生徒たちが「どういう行動を見せるのか」、あるいはそうした生徒たちの行動を見た観客たちが「どんな反応をするのか」といった部分だ。誰かが変顔を披露すれば、他の生徒も変顔をする。誰かがモノマネや一発芸をすれば、他の生徒も後を追う。その同調っぷりを見た観客たちは、やれつまらないだなんだと書き込む。その一連の風景が、登場人物すべてに冷ややかな目線をもって描写され続ける。そこに作り手の独特の立場が滲み出ている。密室劇として描かれるべき展開が……

 まず密室劇ということならば、不可欠なのは閉じた空間ならではの極限状態の描写だ。そうしたシーンがなければ、彼女たちがどれだけの危機に晒されているのかが見ている側に伝わらないし、劇中延々と繰り返される無数のギャグも、張り詰めた空気を緩和する笑いには成り得ない。たとえば、第四話で17番と21番が言い合いになる場面は密室劇ならではの仲間同士のいざこざを描く。ここは良かった。しかし、この二人のヒリヒリした関係が解消されるオチがなんともあっけない。しかも、<クラスみんなが助かるためには21番みたいな子が必要>と指摘したポイントが、その後のストーリーで発揮されることはない。ならばいっそのこと、不和を保ったままもう少し話を進めた方が面白かったのではないか。

 作り手の独特の態度に違和感、そして密室劇としての消化不良感がどうしても残る前半部であった。後半で巻き返しを図るが……

 第六話に入り、バラバラに点在していた観客たちが次第に交錯してくると、ようやくドラマの空気が一変する。その転機となる面接のシーン。就活中の大学生・恵子のその日の面接官が、会社取締役(兼ナレーション)の杉村だと我々が気づく瞬間、画面奥の広告ポスターに<ここから新感触>とコピーを忍ばせているあたりに作り手の遊び心がうかがえる。生徒たちが自分のためではなく、一丸となって脱出に取り組むようになった空気とも連動し、後半へ向けて話は一段階ギアチェンジする。が、その後も重苦しいドラマのムードに変化は見られず、生徒たちは憔悴しきってゆき、同じ様に物語のトーンも萎んでゆく。たった一度、プールで全員でダンスを披露する場面はドラマに一体感が生まれるが、それまで長く続いた作り手の冷笑的な態度を引きずっているためか、むしろ逆に「みなさんこういう絆モノがお好きでしょう?(笑)」というシーンになってしまってはいないだろうか。観客たちの心変わりが突然過ぎて妙に違和感がある。長濱ねるの不思議な魅力

 しかし全編を通して、長濱ねるの演技はストーリーの推進力に一役買っていたと言えるのではないか。たとえば、第一話で見せた<わたし、ゆずきとなら死ねるよ>での吸い込まれるような目の演技は、このドラマの方向性を表情一つで決定付けていた。思春期の女子たちの不安定なコミュニケーションを描く場面であったり、少女同士の禁断の愛など背徳感と隣り合わせのテーマにドラマが接近するとき、必ず彼女の謎めいた演技がそこにあった。畏縮してゆく生徒たちに混ざり、唯一ひとりだけ今後の展開を期待させる不思議な魅力を放っていただろう。その意味で、このドラマは長濱ねる演じる14番とその周りで繰り広げられる小さなやり取りを観察する作品だと言ってもいい。

■何かの予兆のような空気感

 ただ、一つだけ気掛かりなことがあった。第六話で鈴本美愉演じる12番が、密かに想いを寄せる先生を映画館へ連れ出すシーンで上映されているのが、ジャン・ルノワール監督の映画『ゲームの規則』(1939年公開)であった。他に相応しそうな映画なんていくらでもあるのに、作り手はなぜこの古いフランス映画を選んだのだろうか。

 そこで描かれているのは、浮気にばかりうつつを抜かし忍び寄る現実(第二次世界大戦)にまったく向き合わないフランスの上流階級の人々の風景であるが、当然、戦前に撮った映画なので「戦争へ向かわせることとなった愚かな国民性を暴き出す」なんてことは意図してなかったわけで、戦後になってから”結果として”予言めいた作品として高く評価されるようになったのだ。映画の中で登場する象徴的なセリフ<今は誰もが嘘をつく。薬の広告、政府、ラジオ、映画、新聞。当然、我々も嘘をつくようになる>というのは、単純に撮影当時のフランス人の習性を揶揄する言葉に加えて、その後にやってくる取り返しのつかないラストシーンへの伏線となり、さらには映画を飛び越えて、国に訪れる巨大な悲劇の前触れとして機能を果たすのだ。

 もしかすると作り手は、このドラマで我々に警鐘を鳴らしたかったのかもしれない。彼女たちと、彼女たちを取り巻く今の人々の状況を見て、何かしら危機的なものを感じ取ったのではないか。テンプレ通りの志望動機を言う就活生も、バイトを休む中年ニートも、会社取締役も、息子の教育方針に悩む主婦も皆、画面の向こう側が気になって仕方がない。それはまるで、現実から目を逸らし見て見ぬ振りをする、同映画に出てきた盲目な人々の姿だ。であれば今後、もしこのグループに、あるいはアイドル業界に、あるいは日本社会に、何か大きな悲劇が起きたとしたら、このドラマの評価は180度ひっくり返るだろう。どのシーンも、どこか予言的な空気で満たされているように感じるのだ。教室から見える空の異様な気持ち悪さ、全体的にどんよりとした色調、人が飛び降りる光景……。見ている我々をじわじわと蝕むそうした死のイメージに、どうしても悲劇を予感せずにはいられない。そう、このドラマ、何かが変なのである……。(荻原 梓)