私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第1回
「喧嘩」と報道された中田英寿との衝突〜福西崇史(3)

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福西崇史(ふくにし・たかし)。1976年9月1日生まれ、愛媛県出身。ジュビロ磐田「黄金期」の主力メンバー。日本代表でも活躍。国際Aマッチ出場64試合、7得点。サッカー解説者。

 2006年ドイツW杯のアジア最終予選。日本はホームで行なわれた初戦の北朝鮮戦を2-1で競り勝つも、続く2戦目、アウェーのイラン戦は1-2で落とした。

 敗因のひとつは、突然のシステム変更にある。ジーコ監督は、それまで3バックで結果を出してきたにもかかわらず、イラン戦では4バックを採用した。試合3日前の練習中には、守備のやり方を巡って中田英寿と福西崇史が言い争いになり、チーム内は混乱した。そんな状況にあっては、好結果を望むべくもなかった。

 イラン戦の結果に、最も危機感を覚えたのは選手たちだった。自分たちのやり方で戦いたい――そうした意識が高まって、バーレーン戦では3バックに戻すことになった。

 今まで結果を出してきた自信のあるシステムであり、選手たちも気持ちを整理して試合に臨める。4バックのように、あれこれ迷うことがないのは何より大きかった。

 しかし、大きな問題がひとつ、持ち上がった。

 チームの攻撃の軸は中村俊輔だった。3バックでは、2トップでトップ下には中村が入る。通常であれば、その後ろに2枚のボランチが配置される。すると、中田のポジションがなくなってしまうのだ。

 ただし、バーレーン戦はイラン戦で福西とコンビを組んだ小野伸二が出場停止になっていた。

 このとき、福西の頭の中ではいろいろな考えが巡っていた。「いったい、誰が(もう1枚の)ボランチに入るのか」あるいは「中盤の選手の配置を変えるのか」と。

 ジーコ監督は、もう1枚のボランチにある選手を配した。この男だった。

「ヒデがきたかぁって思ったね(笑)」


福西崇史の新たなパートナーは中田英寿(左)だった。photo by YUTAKA/AFLO SPORT

 当時を思い出して、福西が苦笑いする。

「監督の考えだから選手は従うしかないけど、ボランチには(小野が不在でも)本職のイナ(稲本潤一)や、ヤット(遠藤保仁)がいた。彼らの気持ちを考えると、ちょっと複雑だった。でも、もうやるしかない。

 ヒデの性格は理解しているし、プレーのよさもわかったうえで『さて、どうしようかな』ってすごく考えたけど、最終的には自分を抑えてヒデに自由にやってもらうしかなかった。ヒデはフィジカルが強いので(相手に)飛び込んでボールが取れるし、そこで相手のバランスが崩れたら近づけばいい。バーレーン戦は3バックなので、後ろをそれほど気にする必要もなくなったしね。

 でも、4バックだったらヤバかった。後ろと前、さらにヒデとの横の関係も考えないといけないんで、それは相当キツい。ヒデとのボランチは3バックだったからできたと思う」

 ジーコ監督が中田を重用したように、チーム編成はそもそも海外組が中心だった。実は、それがチームの完成度を減速させる要因になっていた。

 ジーコ監督は、国内組が合宿でいくら調子がよくても、親善試合で結果を出しても、W杯予選の試合では海外組を起用した。その結果、合宿などでは国内組が中心になって守備戦術などを築いていっても、試合のときは中盤から前の選手はごっそり海外組に入れ替わってしまうので、またイチから、ということになってしまうのだ。しかも、コンディションが悪くても海外組を起用した。

 格下相手の1次予選でも、それで大苦戦した。

 それでも、ジーコ監督は海外組偏重主義を貫いた。中田と福西が”衝突”し、意思統一が図れないままイラン戦を戦うことになったのも、そうした影響があったのだ。

「海外組の選手は実力も能力もあるんで、それは生かすべきだと思う。でも、彼らの考えだけでやると、国内合宿やアジアカップで優勝するなどして組み立ててきたベースが変わってしまうし、後ろの選手と海外組の選手との溝が広がってしまう。

 あのとき(最終予選になって)、俺はイナの代わりに出ていたけど、イナがレギュラーだったときは、(国内組の選手だけで)海外組の話をよくしていた。『どうせ、次(の試合)は海外組が出るんでしょ』って。だからこそ、アジアカップでは国内組中心のチームで、『結果を出そうぜ!』って一致団結してやれた。心の中では、『なにくそ』って思ってやっていたよ」

 バーレーン戦、福西は中田のために自分を抑えたと言う。小野と組んだイラン戦でも、「シンジの攻撃力を生かすために、左はどんどん上がってもいい」と(小野に)言って、自らは黒子となって守備重視でプレーした。チームのために自己犠牲をいとわず、相棒を立てた。

 一方、所属のジュビロ磐田では、その真逆の姿を見せていた。積極的に攻撃にも参加し、アグレッシブにプレーしていた。

 そのギャップは、なぜ生まれたのだろうか。

「自分の特徴は、相手(周囲の選手)に合わせられること。それに、代表に俺の個性はいらないって思っていた。俺よりも、ヒデをはじめ、シュンスケやシンジのほうがうまい。彼らのようにうまけりゃ、自分を出したかもしれないけど、俺は彼らのレベルじゃなかった。代表は自制してプレーする場所だったんですよ。

 たぶん、自分が好き勝手にプレーしていたら、チームは成り立たなかっただろうし、そもそも試合に出られていなかっただろうね。ジーコが(自分を)評価してくれたのは、自制したプレーだと思うんで。だから、代表ではすごくストレスがたまった。それを抱えて磐田に帰っていたので、クラブではめちゃくちゃ自由にやっていた。それで、監督やコーチにはよく怒られましたよ。『おまえ、代表でのプレーと全然違うやろ』って(笑)」

 絶対に負けられないバーレーン戦。3バックに戻したが、福西は後ろに比重を置いて、ほとんど攻撃参加しなかった。まさしく自制し、チームは1-0で辛くも勝利を収めた。

「点が入ったのが後半26分だった。俺ら後ろの選手は、あのオウンゴールがすごくうれしかった。相手のカウンターとかに、かなり神経を使って守っていたからね。

 バーレーンに勝てたのは、イラン戦の敗戦があったからだと思う。イラン戦では4バックで思うような戦いができず、結果が出なかったことで、次のバーレーン戦は3バックでいくことになって、(気持ちも)割り切って戦うことができたからね。

 あそこ(イラン戦)で中途半端にドローとか、勝っていたら、また(チームの雰囲気も、選手の気持ちも)ギクシャクしたまま試合を迎えていたはず。それで、4バックのままでやっていたら、たぶん(バーレーン戦も)負けていた。そういう意味では、あの”口論”が起点になって、バーレーン戦での勝利につながったのかな、と思う」

 中田と福西の衝突をきっかけにして、課題が浮き彫りになったチームは、それを解消できないままイランに敗れた。大きな1敗ではあったが、その代償として、チームは3バックが”勝利のシステム”であるという確信と、中田のボランチ起用という新手を生み出し、バーレーン戦の勝利を得たのである。

 以降、3バックと中田のボランチがチームの核になっていった。

 続くアウェーのバーレーン戦に勝ち、タイで行なわれた無観客試合の北朝鮮戦にも勝った最終予選。日本は1試合を残して、2006年ドイツW杯の出場切符を獲得したのである。

(おわり)

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