今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「愛は自己への獲得である。愛は惜しみなく奪うものだ。愛せられるものは奪われてはいるが不思議なことには何物も奪われてはいない。しかし愛するものは必ず奪っている」
--有島武郎

作家の有島武郎が評論『惜みなく愛は奪う』の中に綴ったことばである。「愛は与えるもの」とされる一般概念とは逆説的な表現に至りついているところが、実存主義作家・有島の思索の成果であろう。いずれにしろ、愛は人間最上の感情の発露であると同時に、深い懊悩(おうのう)の種ともなる。素晴らしいものだが、厄介なものなのである。

有島武郎は明治11年(1878)東京に生まれた。父は大蔵省高級官僚出身の実業家であった。札幌農学校卒業後、アメリカ、ヨーロッパに留学。帰国後、東北大講師となるが、武者小路実篤、志賀直哉らを知り、雑誌『白樺』の創刊に加わり創作活動をはじめた。

札幌農学校時代に芽生えたキリスト教信仰や、留学期に共感を抱きはじめた社会主義思想から、有島の胸の中には、いつからか、自らの特権階級的生活を捨て去りたい熱情がふつふつと沸き上がっていた。底辺には大きな意味の愛があっただろう。

大正11年(1922)、有島武郎はとうとう思いを実行に移す。父親が有島の将来のためにと入手していた北海道・ニセコの狩太農園の農場解放を実現。麹町の広大な邸宅も処分して借家住まいとなり、筆一本の暮らしに入っていった。思えば、この2年前に発表した『惜みなく愛は奪う』には、「思想は一つの実行である。私はそれを忘れてはいない」とも綴られていた。

有島には、妻の安子との間に3人の男児があった。だが、その妻は20代の若さで病死。有島が38歳のときの出来事だった。以降、有島は3人の子を養育しながら独身を通すのだが、最後には衝撃的な結末が待っていた。

雑誌社勤務の美貌の人妻・波多野秋子と恋愛関係に陥った末に、軽井沢の別荘で首をつり情死を遂げるのである。大正12年(1923)6月のことだった。

あとには、3人の子供に宛てたこんな遺書がのこされていた。

「三児よ父は出来るだけの力で戦って来たよ。こうした行為が異常な行為であるのは心得ています。皆さんの怒りと悲しみとを感じないではありません。けれども仕方がありません。如何戦っても私はこの運命からのがれることが出来なくなったのですから。私は心からのよろこびを以てその運命に近づいてゆくのですから。凡てを許して下さい。皆さんの悲しみが皆さんを傷つけないよう」

有島武郎と波多野秋子の遺体が別荘の管理人によって発見されたのは、その死からひと月ほどのちだった。遺体はいたみがひどく、別々にして運び去ることもできず、もろともに軽井沢の野天の火の中で焼かれた。これが彼らの愛の「点睛」だったのか。

別荘の跡地には、いま「有島武郎終焉地碑」と刻まれた自然石の碑のみがひっそりと残されている。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。