[写真]シャーロッツビルでの衝突事件を受け、アメリカ各地で南軍の将軍銅像などの撤去の動きが広がっている(ロイター/アフロ)

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 白人至上主義の問題がアメリカで再びクローズアップされている。発端となったシャーロッツビルでの衝突事件は、かつての南北戦争で南軍に参加した州で発生。この事件を受け、アメリカ各地で南軍の将軍銅像などが撤去される動きが加速している。南北戦争とはどんな戦争だったのか。国際政治学者の六辻彰二氏に解説してもらった。

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 アメリカのバージニア州シャーロッツビルで8月12日、白人至上主義団体とこれに抗議する団体が衝突し、3人が死亡しました。きっかけは「南北戦争」(1861〜65年)で南軍を率いたロバート・リー将軍の銅像の撤去に抗議する白人至上主義者が集まったことでした。

 シャーロッツビル事件を受け、アメリカ各地で南軍の記念碑を撤去する動きが加速しています。しかし、世論調査では国民の6割が「そのままにすべき」と回答。南北戦争は現在もアメリカに大きな影を落としています。

焦点としての奴隷制

 南北戦争はアメリカ合衆国史上、唯一の内戦です。当時の「合衆国34州のうち南部11州が分離独立を宣言し、これを認めない北部諸州との間で争われました。南部が独立を求めた直接的な原因は、当時進んでいた奴隷制廃止への反対にありました。

 15世紀からの開拓で、アメリカ大陸にはアフリカから多くの奴隷が労働力として輸入されました。しかし、18世紀には「人権」の観点から奴隷制への批判が噴出。その結果、1777年にバーモント州はアメリカで初めて奴隷制を廃止。ハリエット・ビーチャー・ストウ著『アンクル・トムの小屋』(1852)の大反響もあり、アメリカ北部では19世紀初頭までにほとんどの州で奴隷制が廃止されていきました。

 この時期のアメリカで奴隷制の廃止が北部に集中していたことは、産業構造にも関係がありました。当時、産業革命の進展にともない、資本家の発言力が増加。資本家は強制されないと働かない奴隷より、賃金と引き換えに自発的に働く労働者を好んだのです。これはほぼ全てのヨーロッパ各国や、工業化が進んでいたアメリカ北部で19世紀前半までに奴隷制が廃止されることを促す一因となりました。

 ところが、アメリカ南部ではこの時期も開拓時代と同じく、綿花など“人力”が頼みのプランテーション農業が行われていたため、奴隷を必要としていたのです。これに関連して、工業化を進める北部がイギリスから工業製品が流入することを嫌い、保護貿易を主張していたことも、農産物の輸出に依存し、自由貿易を求める南部との摩擦を生んでいました。

南北戦争の始まり

 こうした状況のもと、1860年11月の大統領選挙で共和党のエイブラハム・リンカーンが当選。奴隷解放に積極的だったリンカーンは南部でほとんど得票できず、ほぼ北部の支持だけで大統領選に勝利。これは南部で「自分たちの声が無視される」という警戒を決定的にしたのです。

 その結果、リンカーンの大統領就任直前の1861年2月、サウスカロライナ州をはじめ南部7州が合衆国からの離脱と「アメリカ連合国」樹立を宣言(バージニア州など4州が後に合流)。ミシシッピ州選出の上院議員だったジェファーソン・デービスが大統領に就任しました。

 これに対して、リンカーンは「奴隷制廃止」と「合衆国の統一維持」の方針を堅持。双方の緊張が高まる中、1861年4月に合衆国軍(北軍)が管理するサウスカロライナ州サムター要塞への「連合国」軍(南軍)の攻撃をきっかけに、南北戦争が始まりました。

 北軍が南下し始めると、「連合国」の首都リッチモンドが置かれたバージニア州は南北戦争を通じて最大の激戦地となりました。全軍の指揮を任されたリー将軍のもと、南軍は同州ブルランで北軍を撃退(1861年7月)。その後もリー将軍は勝ち続け、緒戦では南軍が優位に立ちました。

北軍の逆襲

 ところが、長期化するにつれ、戦況は徐々に北軍の優位に変わっていきました。そこには、大きく三つの要因があげられます。

 第一に、規模の差です。1860年段階で、北部の人口は全体の70パーセントに当たる2200万人を超えていました。また、工業生産や武器生産の90パーセント以上を北部が握っていました。人員、物量において南軍は圧倒的に不利だったのです。

 それは戦術面にも影響しました。リー将軍に手を焼いた北軍は西部に迂回し、1863年7月にミシシッピ州ビックスバーグを制圧した後に南下。戦線を分断する北軍の作戦が進むにつれ、人員や物量に劣る南軍は対応しきれなくなったのです。

 第二に、北軍が「境界州」を味方につけたことです。南北の境界線上に位置するケンタッキー州など4州はいずれも奴隷制を維持しながらも、「連合国」には参加していませんでした。いわば中立の境界州を取り込むことは、南北両軍にとって、戦術的にだけでなく、内外の世論の後押しを受けるうえでも重要な課題だったのです。

 それは南北戦争の最中の1863年1月1日にリンカーンが発した「奴隷解放宣言」の内容からもうかがえます。ここでは「反乱を起こしている州での全ての奴隷の解放」が宣言され、そこに境界州は含まれていませんでした。これには批判もありましたが、他方で急進的な奴隷解放を避けることでリンカーンはこれら4州を味方につけたといえます。

 第三に、「連合国」の孤立です。リンカーンはヨーロッパなど各国に「連合国」を国家として承認しないことを求めました。これに対して、物量に劣る南軍はイギリス、フランスの二大国の介入に期待を寄せました。この両国は産業革命の中心であった綿布の生産に欠かせない綿花をアメリカ南部からの輸入に頼っていたため、これが「連合国」の期待に結びついたのです。しかし、両国は「連合国」を公式に承認せず、綿花の輸入元をエジプトやインドに切り替えたため、南軍はさらなる財政悪化と物資不足に直面しました。

 イギリスやフランスが「連合国」を承認しなかった背景には、両国とも既に奴隷制が廃止され、国内世論が北軍支持に回っていたことに加えて、貿易問題がありました。当時、ヨーロッパでは凶作が続き、アメリカ北部からの穀物輸入が急増。ヨーロッパ諸国が綿花輸入をあきらめてでも合衆国の要求を受け入れる状況は、「トウモロコシ王は綿花王より強い」とも言われました。

南北戦争の帰結

 包囲網が狭まりつつあった1863年7月、南軍はペンシルベニア州ゲティスバーグの戦いで敗北。この地は、兵士を埋葬するために戦いの約4か月後に設けられたゲティスバーグ国立墓地の奉献式で、リンカーンが「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な演説を行った土地でもあります。ゲティスバーグの戦いを機に南軍は後退を重ね、1865年4月に北軍はリッチモンドを制圧。リー将軍が捕らえられたことで、南軍は事実上崩壊しました。さらにデービス大統領も5月に捕らえられ、「連合国」は名実ともに潰えたのです。

 しかし、南北戦争はアメリカに大きな傷跡を残しました。歴史学者デイビッド・ハッカーは兵士だけで死者は75万人にのぼると推計しており、この数字はそれ以外の戦争でのアメリカ軍の死者の合計を上回ります(歴史学者アル・ノフィによると、兵士の死者の3分の2は戦闘によるものではなく、病院や捕虜収容所での伝染病などによる)。

 さらに、南北戦争は市民生活にも大きな影響を及ぼしました。南北両軍は兵員不足から成人男性を徴兵し、これに対する抗議運動もそれぞれで起こりました。また、奴隷解放宣言は黒人の軍隊加入を認めており、これは北軍の兵員不足を解消する一因になったといえます。

 その一方で、市民の犠牲者も5万人以上にのぼったと推計され、特に戦場となったバージニア州などでは多くの家屋、農園、鉄道が破壊されました。最近の研究では、リンカーンをはじめとする北軍は、経済基盤の破壊によって南軍の抵抗力を弱める「総力戦」を意識していたといわれます。

再建の成果と限界

 荒廃した国土の再建は、合衆国にとって急務でした。しかし、リー将軍が捕らえられた5日後、リンカーンはワシントンD.C.で「連合国」支持者に暗殺されていました。これを受けて大統領に昇格したアンドリュー・ジョンソン副大統領のもと、アメリカは再建に向かっていったのです。

 最大の課題は、戦争の主要因となった奴隷制の廃止でした。リンカーンの「奴隷解放宣言」に基づき、1864年から1865年にかけて議会で奴隷制を認める内容だった憲法の修正が審議されました。これを踏まえて1865年12月には修正憲法が発効し、アメリカは国家として公式に奴隷制を廃止したのです。

 これと並行して、南部には合衆国軍が進駐するとともに、各地に「自由民局」オフィスが設置されました。自由民局は南北戦争末期の1865年3月にリンカーンの主導で戦争省(後の国防省)に設立され、戦後の南部で黒人の教育、離散家族の再会、法律の適切な執行の指導、白人の元奴隷主の監督など幅広い業務にあたりました。北部から派遣された官僚が南部の行政を実質的に握ることで、奴隷制の影響を一掃しようとしたのです。

 これらの政策は、アメリカのあり方を変えるものでした。独立以来、アメリカは「諸州の集まり」で、中央政府であるワシントンの権限は限定的でした。南部白人にとって奴隷制の問題や南北戦争は、中央の介入を拒絶し、自由を求めるものだったともいえます。したがって、戦争終結後、南部が北部の監督下に置かれたことは、アメリカが「一つの国家」として再スタートを切る転換点になったといえるでしょう。

 しかし、これでアメリカの分断が解消されたわけではありません。北部が全てを握る状況に南部では不満が増幅し、南北戦争が終結した1865年の末にはテネシー州で、元南軍兵士などを中心に白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」(KKK)が発足したのです。

 その後、KKKは南部一帯に広がり、自由民局や黒人に対する抗議、襲撃などが相次ぎました。これに加えて、過度の介入が南部諸州の権限や黒人の自立性を侵害することへの懸念もあり、自由民局は1872年に廃止されました。それにともない、南部では富裕な白人が政治、経済的な影響力を回復。その結果、人種問題は地層深く生き残り、南部は1960年代の公民権運動や2000年代以降のヘイトクライムの主な舞台となってきたのです。

 こうしてみたとき、南北戦争は国家としてのアメリカの一体性を高める転機になったものの、北部や黒人にとっては「忘れてはいけない人種差別の歴史」の、現在も南軍旗を掲げる南部の州政府や白人至上主義者にとっては「強権的な政府に立ち向かった歴史」の、それぞれの記念碑となることで、アメリカの分断を促す一因にもなってきたといえます。その意味で、南北戦争は今も終わっていないといえるでしょう。

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■六辻彰二(むつじ・しょうじ) 国際政治学者。博士(国際関係)。アフリカをメインフィールドに、幅広く国際政治を分析。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学、東京女子大学などで教鞭をとる。著書に『世界の独裁者』(幻冬社)、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『対立からわかる! 最新世界情勢』(成美堂出版)。その他、論文多数。Yahoo! ニュース個人オーサー。個人ウェブサイト(http://mutsuji.jp)