「JAPAN POMPOM(ジャパンポンポン)」は、日本のマスコミはもとより、イギリスやスイスの国営テレビからも取材され、スペインやオーストラリア、イタリア、ルーマニアなどの雑誌にも紹介されるシニアのチアダンスチーム。平均年齢は、なんと71歳。
 
チームの創設者であり、いまもセンターで踊る滝野文恵さん(85)が「ジャパンポンポン」を立ち上げたのは、63歳のとき。当初のメンバーはわずか5人。それから22年目の現在、出演依頼は数多く、入会のオーディションも12年前から毎年行っているほどの人気ぶりだ。滝野さんに、そもそもチアを始めた理由を尋ねると、まるで太陽のような明るい笑顔が返ってきた。
 
「勢いですよ。私の人生、なんでも勢いです(笑)」(滝野さん・以下同)
 
'32年(昭和7年)1月15日、滝野さんは広島県の福山市に、4人きょうだいの3番目の次女として誕生。女学校時代は宝塚歌劇、大学時代は乗馬に熱中するが、いずれも学校卒業と同時に、「あっさり、おしまい(笑)」。'54年、22歳でアメリカに1年間の留学をしたのは、「これからは女も自立しなければいけない」という父の勧めだった。入学したミシガン大学では、下宿でも教室でも日本人留学生たちと日本語で会話をしてしまうため、日本人のいない小さなカレッジに転校。
 
「楽しかったですね。半年間でしたが、英語も覚えました。そしてなにより、この体験のおかげで30年後の50代にまたアメリカに行こうと思えた。人生、何事も必ずステップになるし、つながっていくんですね。無駄はないんです。すべてラッキー(笑)」
 
帰国後は住友金属に就職し、英語力を生かして翻訳を担当。25歳で製薬会社勤務の男性と結婚して家庭に入った。
 
「彼は8歳年上でしたから、父のように頼りになると思ったんです。でも違ってた。旧家に生まれ育った夫とはすべてにギャップがあって。最初から水と油だったかな」
 
26歳で長女を、29歳で長男を出産。しかし、'84年に滝野さんは27年間の結婚生活に終止符を打った。52歳からの再スタートである。
 
「1人の部屋で、なんとかしなければ、と考えていたとき、かつての留学仲間が勉強していたジェロントロジー(老年学)を思い出したんです。老いと社会との関係を研究する学問なのですが、50歳のときに父の死に直面してから“老いて生きる”ことをずっと考えていました。でも答えは見つからない。だったらアメリカの大学院で勉強するしかない。思い立つと、これしかない! と取り憑かれる性格なんです(笑)」
 
かくして、53歳からの2度目の留学生活が始まった。800ページものテキストと格闘し、授業は録音して文字に書き起こして理解。クラス全員で老人施設を建設するプランを立てたり、自分の葬式のシミュレーションもした。老人ホームでの実習も体験した。
 
「自分がどう老いていくべきかは、見つけられませんでしたけどね。人は人、というアメリカの個人主義は心地よかった。他人に対して干渉せず、でも実は、『助けて』と言えば助けてくれる、ちゃんと言葉で主張するという、そんなコミュニケーションを学んだことも、その後に生かされています」
 
57歳で帰国。そして'95年の春。アメリカから届いた分厚い本を読んでいたときだった。『平均年齢74歳のチアリーダーグループがある』という一文に、「お年寄りにチアができるの!?」と、目がくぎ付けになった。
 
「わずか2〜3行の記述です。ふつうなら読み流すんでしょうね。でも、チア=若い人という固定観念に縛られていた自分に気づいて、じゃ、やってみようかなと思ったんです。日本で誰もやっていないなら、私がやろうって」
 
'96年1月、創設メンバー5人で「ジャパンポンポン」は立ち上がった。練習場所には、区の体育館を借り、当時の平均年齢60歳弱。モットーは「夢と元気と希望を与えること」。参加資格は「55歳以上」「自称・容姿端麗」。1年に1曲のペースでレパートリーを増やしていくが、参加者はなかなか増えなかった。イベントに招かれることもなく、ときどき老人施設にボランティア公演に行くものの、「みだらなこと」と眉をひそめられたこともあった。
 
いま、滝野さんは静かなまなざしで言う。
 
「やめようと思ったことはありません。世間さまからどう見られても気にならないんです。世間さまは非難することはあっても、助けてくれませんから。やっぱり自分の思いの強さが一番なんです」