人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

身も蓋もない、無謀で純粋な恋に堕ちてしまった女は、美しく、ひたむきに、強かに、そして醜く成長していく。

人妻の菜月は、独身のフリをして参加した食事会で、独身の達也から口説かれる。警戒心を抱きつつも、彼に徐々に惹かれ始め、ついに恋に堕ちてしまった。




「菜月、そろそろ基礎体温測るとか、そういうの始めた方がいいんじゃないの?」

夫の宗一は新聞から目を離さずに、朝のコーヒーを啜りながら言った。

何気ない風を装っているが、これは彼なりの、精一杯の主張だ。少し前から、夫には子どもを持ちたい願望が芽生えている。

「そうだね。私、わりと忘れっぽいから、気をつけないと」

「俺も協力するから、大丈夫だよ」

本心が顔に出ないように気をつけながら、菜月はなるべく優しく微笑んで朝食を片付ける。

子作りに協力的な夫というのは、ひょっとすると、世間一般的な評価は高いのかも知れない。その願望のほとんどは義母譲りで、彼が菜月の身体に手を伸ばすのは、月に一度程度だとしても。

それに比べて自分は、ひどい不良妻だ。何食わぬ顔で従順な妻を演じながら、隠れてピルを服用し、身も心も他の男に捧げてしまっている。そう、“身も心も”。

達也の力強い腕と、熱い体温を思い出す。あれに包まれてしまうと、菜月はもう、他の何もかもすべてが不要に思えてしまう。

不思議なほど、罪悪感はなかった。

そんな後ろめたさを持つくらいなら、初めから何もしなければいい。平然と嘘をつくことができなければ、達也に会うことができなくなる。

あの日。

達也の部屋で一線を越えてしまってから、菜月は半ば開き直りにも似た気持ちで、危険な恋の中毒に溺れていた。


恋する女を襲ったのは、狂おしいほどの嫉妬と独占欲...


打算抜きの恋愛は、結婚後にしかできない


六本木駅近くのタワーマンションの、小ぶりな1LDKの部屋。

達也の部屋に初めて足を踏み入れたのは、初めて二人で食事に行った日の翌週だった。

あれから菜月は、自分でも驚くほど達也への感情が高まってしまった。彼に対する警戒心や猜疑心はいつのまにか弱まり、気づけば心ここにあらず、達也のことばかり考えている。

「昨日、達也と飲んでたんだけど...」

そして極めつけは、友人の美加のこの一言だったと思う。

このとき菜月の胸には、信じ難いほどの嫉妬と独占欲が、どろりと押し寄せた。

“家庭”という平穏な世界に収まり、行儀のよい妻として生きている限りは到底無縁の、禍々しく激しい感情。

もちろん分かってはいたが、達也は遊び盛りの身軽な独身で、自分に好意を寄せているからといって、彼には彼の世界がある。

人妻という自分の立場だって、忘れてはならない。怯えや恐さがなかった訳でもない。

傍から見れば、ただのありふれた浮気だろう。人妻に興味を持った独身男と、それを真に受けてしまった馬鹿な女。

「うち、来る?」

それでも、達也がその一言を口にしたとき、菜月の心はすでに決まっていた。




「ねぇ。ぶっちゃけ、菜月さんの旦那ってどんな人?美加は“なっちゃんはセレブ妻”っていつも言ってるけど」

達也は自分で聞いておいて、最後は拗ねたようにそっぽを向く。

情事のあと、達也はやけに饒舌になり、菜月に甘えたがる癖があった。穏やかで冷静沈着な夫とは正反対だ。

宗一と出会ったときは、この人と必ず結婚すると確信を持った。真面目で堅実で、医者という職業も出自も申し分ない。

彼を心から愛していたし、自分たちは恋愛結婚だ。だが、当時普通のOLだった菜月に、ある種の打算が働いたことは否定できない。

今となっては、菜月を女として見ることはほとんどなく、母親にさせようとする夫。

「そんなことないよ。美加は大袈裟だから。夫は...普通の人だよ」

「ふぅん。じゃあ、旦那と俺、菜月さんはどっちが好きなの?」

返答に窮するような質問をいくつも投げるのも、達也の癖の一つだ。あまりに子どもじみているが、菜月は彼の、そういう感情的で素直なところを愛おしく思う。

いつ交換したのか分からないシーツに、達也が被せてくれた毛玉だらけのブランケット。洗面所の隅には埃がたまり、お風呂の鏡は曇っていた。

綺麗なマンションではあるが、夫婦の自宅とは全然違う景色の、一人暮らしの男の部屋。

菜月は思う。

ただ純粋に、感情だけで人を好きになるような本物の恋愛は、結婚後にしか絶対にできないはずだ、と。


情事に溺れる二人。その背後に忍び寄る女が...?


彼を泳がせておくのは、戦略の一つ




―ああ、疲れた...。

同じフライトの同僚と別れ、リムジンバスに乗り込むと同時に、あゆみは急いでスマホの電源を入れた。

今夜は付き合って三ヶ月になる達也と、久しぶりにデートの約束をしている。深夜のシンガポール便で酷使した身体は鉛のように重く、ひどい睡魔で今にも瞼が閉じてしまいそうなのを何とか耐えた。

CAの仕事は嫌いではないが、30歳を目前に、体力の低下はどうしても否めない。

―既読にもなってないじゃない......!

今日はどこに何時に待ち合せするか、フライト前にLINEを送っておいたのに。

達也はもともと掴みどころのないタイプで、マメでもない。そういう男だと分かってはいるものの、あゆみの胸には苛立ちと焦りがジワジワと広がっていく。

これまで散々出会いと別れを繰り返し、29歳でようやく出来た素敵な恋人が達也だ。

可愛げのある整った顔立ちはかなり好みで、しかも一流の商社マンという、結婚にこれ以上ないほどふさわしい相手。こんなチャンスは、もう訪れないかもしれない。

正直、あゆみの気持ちの方がずっと勝っているのは分かっているし、自分が留守の間にどこで何をしているのか、不安で仕方がない。




しかし、達也にとっても、自分はそう悪くない女のはずだ。

普段はおちゃらけた態度ばかり取っているが、実は少し亭主関白な面があるのは知っている。いつ駐在になるかもわからないし、海外慣れしたあゆみは都合が良いだろう。

こういった女の心理を、世間では“執着”とか“打算的”と呼び、醜いものとされるかもしれない。

だが、手段は選ばないつもりだ。こちらは人生がかかっている。他人の評価など気にしている場合ではない。何としても、達也と結婚する。

―それにしても。最近のたっちゃんは、明らかに変だわ...。

彼はもともと束縛を嫌うタイプで、女に多くの時間を費やすのも苦手だから、ある程度の自由は敢えて与えていた。それほど密に会っているわけでも、連絡を取り合っているわけでもない。

それも結婚に辿り着くための戦略の一つとして、あゆみはぐっと我慢しているのだ。

実際、会えば楽しい時間を過ごしたし、達也がそれなりに好いてくれるているのはよく分かったら、二人の関係は決して不調というわけでもなかった。

―会う時間も減ったし、LINEの返信も遅くなった...。

考えたくはないが、起こり得る可能性といえば、他の女だろう。

―そんなの、絶対に許さない。

今夜達也に会ったら、絶対に原因を突き止めてやる。

あゆみは確固たる決意を抱きながら、ゆっくりと瞼をとじた。

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深みに嵌っていく菜月と達也の関係と、それを阻止する女の執念が交錯する...?