日本史の教科書にも書かれている、卑弥呼のいた「邪馬台国」は日本のどこにあったのか、いまだに意見が大きく割れています。今回の無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』では、編集長の柴田忠男さんが「そもそも卑弥呼や邪馬台国など存在しない。魏志倭人伝は中韓の捏造だ」と主張している衝撃の1冊を紹介しています。

『高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する』田中英道・著 勉誠出版

田中英道『高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する』を読んだ。日本の神話と考古学の結合を図った七つの論考が収められており、一生懸命読んでみたが、その殆どがわたしの手に余る。かつて多くの素人も参加して、あれこれ珍解釈を繰り広げた「魏志倭人伝」の邪馬台国、卑弥呼騒動があったのを覚えているので、「なぜ卑弥呼神社がないのか 日本のどこにも存在しない『邪馬台国』」の章はすんなり理解できた。

あの騒動からは何も結論は出なかったし、いまも議論が続いているようだが、著者は日本国土に卑弥呼神社が一社もない=邪馬台国の痕跡がないことを以て、「魏志倭人伝」は日本に来たこともない魏の陳寿の想像だと断じる。

「魏志倭人伝」の記述はもともとおかしい。日本の「魏志倭人伝」論争を読むと、どんな解読の仕方も可能で、九州説、関西説が繰り返し論じられているのだから、誇大妄想の古代史などと非難しても仕方がない。この記述の「距離」の想像性をみれば、最初からフィクションを書くことを意図していたとしか考えられない。

中韓の政治的捏造による「歴史認識」問題の提起は、昨今に始まったものではない。この歴史論争の根源に関わるものが「邪馬台国」論争である。「邪馬台国」とか「卑弥呼」という「蔑称」がいつのまにか歴史用語になり、教科書にまで載せられてしまったこと自体が、歴史家、教育者のレベルの低さを示すものである。

今日、「邪馬台国」の信憑性が学界やマスコミでも(中韓でも)確実だと思っているなら、その伝承が残り、それを祀る神社や祠があるはずなのだから、その面での追及をすればいいのに、やらない。最初から諦めている。そのこと自体が、「邪馬台国」不在の証ではないか。存在に確信があるなら、日本のどこかで、その伝説なり、神社なりを調査してもいいはずだが、ないからできない。

「日本の各地の伝説にも、土地の記憶に一切ないということは、このことで、そのもともとの不在が問われなければならなかったはずである」という判断はじつに明解である。鹿児島に日本唯一の「卑弥呼神社」があるのだが、一般にも無視されている。郷土史家が昭和57年に建立、その由来を書いた看板がトンデモお笑いレベルだ。

「ある『国』の支配的な『首長』的存在であるならば、鎮魂の意味でも、そこの地元の人々が祀らないはずはないのである」。神々はもとより鬼の類でも神社がある。聖徳太子、柿本人麿、菅原道真、平将門、楠木正成、新田義貞にも神社がある。神道の神でも日本人でもない徐福でさえ神社がある。「卑弥呼」にはそれらしい存在の痕跡もない。万葉集にもそれを推測させる歌が一切ない。

地方の歴史や文物を記した地誌である「風土記」にもない。民俗信仰、民間伝承、昔話の中にも「卑弥呼」系は見いだせない。とにかく日本には「魏志倭人伝」の様相を伝えるものは全くない。「邪馬台国」の不在はすでに定まっていたのだ。「魏志倭人伝」は、日本史において検討に値しない。わたしは今後「偽史倭人伝」と書く。「倭」という「蔑称」が気に入らぬが。

編集長 柴田忠男

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出典元:まぐまぐニュース!