『毒舌嫁の在宅介護は今日も事件です!』(山田あしゅら/主婦と生活社)

写真拡大

 育児と介護は似ている。食事から排泄まで、身の回りの世話に心血を注ぐのだ。だが、人生の始まりと終末の時という大きな違いがある以上、育児にある「未来」は介護には抱きにくい。そのせいか、介護のイメージはいつもどこか暗く物悲しい。

 人間は誰でも老いるし、超高齢社会に突入した日本では介護はより身近になりつつある。嫌だなあ、大変そうだなあと身構える人も、すでに経験している人も悲観に暮れることはない。『毒舌嫁の在宅介護は今日も事件です!』(山田あしゅら/主婦と生活社)は、そうしたマイナスのイメージを覆すだけでなく、ためになって笑える。

 同書は、明るくてリアルな体験談をほんわかとしたイラストで綴った介護ブログ「13番さんのあな」が書籍化されたもの。「13番さん」とは「じいさんばあさん」が「じゆーさんばーさん」を経てたどり着いたいわば“略語”。あなは、童話「裸の王様」に出てくる、言いたいことを言う例の「穴」のことだ。

 著者らしいユーモアとセンスがちりばめられた同書を読むと、介護の現実はもちろん、もやもやとしたことがスッキリとしたり、違う視点が見えてきたりする。

■歩くことは当たり前ではない。手ほどきのポイントと気づき

 例えば、歩くこと。介護が必要な老人はだんだんと手足が不自由になり、歩くことがままならなくなる。普段から不自由なく歩いている介護者からすれば、やきもきさせられることも。だが、ちょっとしたコツで見違えるかもしれない。

 ここでの実体験は、デイサービスからのアドバイス。認知症のばあちゃんが小刻みに歩くことについて、「側についてゆっくり足を前に出すように話しかけながら歩かせると歩幅が広がりやすくなります」と教えられ、実践したところ、脳梗塞の発作以来の歩行のクセが直り、「前屈みだった背中も少しシャンとする」ことに気づく。そして「しっかりと歩けているうちが生き物としての花」と著者は俯瞰する。

 さらに著者は気づく。

歩幅を合わせて歩くうちに
「違う自分を見つけることができた」
というか。
考えてみれば、ほかの動物は子育てまではするものがいても
親や年長者の面倒をみるって話は聞いたことがない。
つまり
自分より前に生まれた者の
面倒をみることは
地球上で人間だけに与えられた
特権ともいえる。

 衰えた足腰のじいちゃんばあちゃんと一緒に歩くことは、尊いことなのだと気づかされる。

 そうして胸に響いた次の瞬間には、「神様からの罰ゲーム?」と下の世話に追われる著者の様子がイラストで描かれていて、しっかりオチが決まっているのだ。ともすれば悲劇となるネタも爽快なコメディに昇華して。

■時に発散して、毒づいて、愛を注ぐ

 主婦である著者の家では、じいちゃんとばあちゃんの2人の介護をして10年近くになる。奮闘していくなかで2人の実の息子である夫や孫である長男との連携は良くなり、介護生活により慣れていくが、今後も2人の状態が劇的に良くなる可能性はそれほどなく、むしろ後退していく。それが老いることだからだ。

 2人は、子どものようになったり、我が儘になったりもする。その度に著者は振り回され、苦労させられるが、タイトルの通りに毒づいては発散する。だからこそ、見えなかったものにも気づき、2人を通して自分自身や人としてのあり方を考えることができるのだろう。

 日本では介護者は、家族の恥とばかりに色々と隠しがち。恥じる必要は何もないのに、独りよがりになって、さらにストレスを抱えて、視野狭窄になっていく。たまには「ちらっと殺意をいだかせていただいてもよろしいか?」と本音を吐いて、「どないやねん!」とツッコミを入れて、笑い飛ばすといい。

 それに認知症だって悲しいばかりではない。確かにばあちゃんは愛妻家の夫も息子の名前も忘れてしまった。でもおいしいスイカのことは覚えているし、著者は愛しさを覚えて言うのだ。

要らないもの
全部忘れちゃったから
今のかわいい
ばあちゃん
なんでしょう。

文=松山ようこ