青春アニメ、なぜ地方の町ばかり舞台に? 『打ち上げ花火〜』の独自性に迫る

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 1993年にTVドラマの1エピソードとして放映された岩井俊二監督の同名の人気作品を、24年経ってアニメ映画化した『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』。『君の名は。』を大ヒットに導いた川村元気プロデューサー、脚本のみの仕事に初挑戦した、映画監督・映像ディレクターの大根仁、そして『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズの監督・新房昭之らが、原作の要素から新たに内容を解釈し直した作品だ。

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 花火という要素を中心に、ある少女に惹かれていく少年の夏の一日を描いた本作を観ながら、ぼんやりと意識にのぼっていたのは、このように田舎の町を舞台に、学生の青春を映し出した光景を、劇場アニメのなかで最近何度見ただろうかということだった。『夜明け告げるルーのうた』、『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』、『聲の形』など、地方の中高生の物語が相次いで描かれている。もちろんこれらの作品は、新海誠監督の『君の名は。』が大ヒットする前から企画が始動していたはずで、同作のヒットを後追いしようとしたわけではないだろう。その前からも、『雲のむこう、約束の場所』、『時をかける少女』、『サマーウォーズ』、『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、『心が叫びたがってるんだ。』など、現在へと続く青春アニメ映画への流れというのは出来上がっていたように思われる。

 しかし、この急激な青春作品への志向と、本作は一線を画しているように感じられるのも事実だ。観客の評判では、「思っていたのと違った」という戸惑いの声も聞かれる。ここでは、青春アニメ作品が地方の町を舞台とすることの意味を読み解きながら、本作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』が描いた独自性を掘り下げて考えていきたい。

 青春アニメへの流れが激化した直接的な要因は、90年代頃から日本の劇場アニメ作品のトップとしてシェアを独占してきた、スタジオジブリの二大アニメーション作家である高畑勲、宮崎駿の高齢化にあるだろう。国民の多くを魅了するスタジオジブリによる王道路線の全盛時には、そこからこぼれるファンへ向けて作品を作っていたアニメ作家たちが、ジブリの牙城が崩れ始めたタイミングで、よりメジャーな企画へ挑戦する状況になってきたのである。その流れを牽引する川村元気プロデューサーなどによる一連の試み自体は、閉塞的な面が目立っていたアニメーション界の活性化という意味で、意義深い試みであることは間違いない。その題材として選ばれたのが、前述したような田舎の学生の青春・恋愛物語だというわけである。

 しかし、なぜそのような題材が「アニメのスタンダード」なものになり得ると認識されたのだろうか。それはおそらく、劇場アニメーションがヒットするための潜在的な起爆剤となるのが、学生を中心とする若年の観客にあるという見方があり、そこから全年代に向けて受け入られるにあたって、普遍的な要素を煎じ詰めていくと、やはり青春物語や恋愛要素が残るということなのだろう。このあたりは、日本の音楽業界にも通底する部分がありそうである。

 そのなかで『君の名は。』が、とくに学生に絶大な支持を受けた理由の一つに、臆面もないさわやかな恋愛描写があったといえるだろう。私は初めて『君の名は。』の劇場予告を目にしたとき、男女二人の主人公がめいめいに「忘れたくない人!」「忘れたくなかった人!」と叫び合う、卒業式の発表のような演出が、大人の観客として多大な照れくささを味わいながら、しかし、だからこそそこに圧倒的な勢いを感じたというのも確かである。

 ここで思い出されるのは、田舎の封建的な風土の中で学生の明るい男女交際を描いた、戦後間もない頃より何度も映画化された青春映画『青い山脈』である。国民的な流行歌となったテーマソング「青い山脈」にのせて学生たちがサイクリングに出かける場面や、海に向かって、「好きだー!」と叫びまくる場面が、作品全体のアイコンとなっている。『青い山脈』における純真な生徒たちの朗らかな恋愛や、彼らを抑圧する環境というテーマは、時代を経てなお残り続け、現在の我々が持っている「青春」のイメージへ進化を遂げた。 『君の名は。』のヒットの理由の一つに、1953年製作の映画『君の名は』を含め、このような若者の情熱を発散させる先祖返り的な内容への回帰があったように思われる。

 『青い山脈』の原作の舞台となるのは東北地方の港町だが、ロケ地は作品によって、静岡県や滋賀県の港町が選ばれている。彼らがその海に向かって叫ぶのは、古臭い因習に包まれた日本の土地から、広い世界へ向けての逃避行為であるといえよう。フランス映画『大人は判ってくれない』(1953年)とも通底する、渚として象徴される、子どもによる閉塞からのささやかな反抗と限界というモチーフは、岩井俊二版の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』でも、転校していく子ども同士の恋愛というかたちで、ある程度踏襲されている。大規模な経済開発から取り残された、日本の各地に残る古い風景は、そのような因習めいた風土を強調する効果もある。

 しかしその構造というのは、ファンタジーやSFといった新しい趣向が青春物語と組み合わされるようになってきた後の作品では、必ずしも当てはまらない部分もある。閉塞した状況に神秘的な解決をもたらす要素として、むしろその舞台は、子どもたちの突破口になっている場合がある。『君の名は。』や、『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』のヒロインたちが不思議な体験をするという背景に、神社や鳥居という、日本独自のプリミティブな宗教的モチーフを配置することで、超常的な内容に説得力を与えようとしているように見えるのである。

 『転校生』、『時をかける少女』など大林宣彦監督が青春映画の舞台として、古い風景が息づく尾道市を何度も選んでいるというのは、ノスタルジックな感覚や立体的な美しさとともに、比較的コンパクトな空間のなかに、山があり海が見えるといった、平地が少なく山に囲まれた日本の風土の特徴が凝縮された光景に、やはり一種の説得力を求めたためであろう。そこには、日本人が古来より持っている、山で仕事をして人里に下りるとホッとする感覚、漁師が港の灯りを目にすると安堵する感覚が存在している。危険な自然への畏怖の念から生まれた、山の神と海の神という、一種の土着的な宗教観と、その山と海、もしくは川という聖域の間で「生かされている」という、漠然とした日本人の感覚を意識させる空間というのが、港町だったり、山間の町であったりするのだ。

 今回のアニメ映画版『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は、このような宗教とファンタジーを結びつける試みが、非常に顕著で自覚的である。そこにはやはり神社が登場し、神域を磁場とした花火大会の存在が描かれる。そして少年は、超常的な力によって、次第に海へと誘導されていく。そこもまた死を連想させる異界である。

-もしプールで水泳勝負に勝っていたら、“なずな”と二人きりで花火大会に行けたのかもしれない。-

 このように、「あのとき、ああしていたら、今頃どうなっていたのだろう」と、自分の選択を後悔することは日常のなかでよくあることだ。分岐するストーリーを実際に両方とも描くという原作ドラマの設定から、上映時間が伸びるとともに、さらに要所で選択肢を増やし、あたかもシナリオ分岐型のアドベンチャーゲームへと接近した本作が描くのは、無数の選択肢を何度も何度も選び直すことができるという奇跡の力だ。物語の鍵となる謎のアイテムによって、その力をもたらし、媚態とともに少年を導いていく“なずな”という存在は、ここでは悪魔のようにも見えるし、また仏教の世界で衆生を導くという、菩薩のような人智を超えたものに昇華されているように感じられる。

 『魔法少女まどか☆マギカ』においては、“契約”による支配構造として描かれた、やはり大人の因習のなかで管理され抑圧される子どもという構造に、一つの宗教的解決が提示されていたように、本作で分岐し変遷を遂げてゆく不気味な世界観というのは、生と死を繰り返し続ける仏教的な輪廻転生の世界観と重なっていくように見える。そして、奇妙な花火というかたちで表現される、その不気味さというのは、ある時期の男子学生が持つ鬱屈とした不満や、やり場のない欲望とシンクロし、ぐるぐると際限なく回り続ける、吐き気をもよおすような身勝手で不毛な妄想世界とも接続されている。それをわざわざ作中で言及したり説明をしないという点で、本作は『魔法少女まどか☆マギカ』よりも、さらに前へ進んでいるように思えるのだ。

 あくまで、さわやかさとノスタルジーを継承する青春物語のアップデートとして90年代を代表する一編であった、岩井俊二版の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』は、本作においてそれを、古来より神仏習合を特徴とする日本的な宗教観と自覚的に結びつけることで、全く違うものへと変貌を遂げた。ここで到達している文学的な難解さについては、アニメ作品『銀河鉄道の夜』や『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズなどのような作品と比較されるべきで、その意味で本作は、予告編の雰囲気や青春作品としての近似性から、新海監督の『君の名は。』の明快さを期待した一部の観客を戸惑わせる結果となったように思われる。

 『君の名は。』の爆発的ヒットの影響から、青春作品のラッシュは当分続いていくように思われるが、このような異形の、しかし多くの青春作品を包括するような決定的な意味を持っているとも思える新しい青春映画の完成を受けて、今後のアニメーション作品はどのように変化していくのだろうか。もしくは、ある意味「無かったこと」として無視されたまま進行していくのだろうか。この後の推移を見守っていきたいと思う。(小野寺系)