黄金世代との出会い、ジュニアユース代表での日々を紐解いてくれた稲本。最初は静岡県勢に押されっぱなしだった!? 写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

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 年代別の日本代表に初めて選ばれたのはいつだったか。

 小6の時にナショナルトレセンの候補には入ったが、日の丸となると、中2の秋が最初だった。2年後の世界大会を目ざす、U-15日本代表の立ち上げだ。

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 稲本潤一は、初期メンバーのひとりだった。
 
「そうやね、いちばん最初はジュニアユース。シンジ(小野伸二)と高原(直泰)に会ったのをはっきり覚えてる。中2で、静岡のつま恋でしたかね。大阪から出かけていきましたよ。ツジ(辻本茂輝)ともうひとりと3人で」
 
 すでにガンバ大阪ジュニアユースで英才教育を施され、日進月歩の進化を続けていた。中学年代では大阪はおろか、関西全域にその名を轟かせていたが、やはり日本は広かったのだ。ある種のカルチャーショックを受けたという。
 
「言ってみれば関西のレベルしか知らなかったわけで、いざ全国に行ってみて、驚かされることがやっぱり多いわけですよ。サッカーだけじゃなく、それこそ標準語を話しているだとか、いろんな地域の文化や考え方とかにも触れて。井の中の蛙じゃないけど、まだまだ俺なんかちっちゃいもんやなって感じましたね」
 
 とりわけ一大勢力となっていたのが、静岡勢だった。小野や高原だけでなく、1学年上にも山崎光太郎や小林久晃らツワモノがいる。合宿中、イナはそのうちのひとりと同部屋になった。それが、シンジ&タカとの距離をぐっと縮めるきっかけとなるのだ。
 
「ふたり部屋でね。相棒が静岡のひとで、シンジも高原もしょっちゅう部屋に来るわけですよ。自然と仲良くなったし、すぐに打ち解けた。やっぱり静岡のひとたちって、なにかが違う。雰囲気もそうやし、それぞれがすごい自信を持って取り組んでた。人数がむっちゃ多かったんでね(笑)。しゃべれる相手が多いからそうなるんやとも思うけど、大阪から来た僕らは圧倒されてました」
 
 ジュニアユース代表は、途轍もない技巧派集団だった。小野、高原、稲本の黄金世代三羽烏でさえ、まだこのころは突出した存在ではなかったのだ。チームの中軸を担った山崎、小林、古賀正紘、川口卓哉、吉川京輔らひとつ上の世代に揉まれ、やがてレギュラーポジションを掴み、大きな自信に繋げていった。
 
ナイジェリアでファイナリストとなったチームからは、彼ら3人のほか、辻本、酒井友之、小笠原満男、曽ケ端準らも当落線上で奮闘していた。
 
 U-17日本代表での熾烈なポジション争い。ガンバジュニアユースで攻撃的な位置からボランチにコンバートされ、新境地を開拓していた稲本だが、このチームでは主に右のサイドバック、あるいはウイングバックでの出場が続いた。
 
「アジアユースの時は4-4-2の右サイドバックで、エクアドル(U-17世界選手権)では3-5-2の右ウイングバックでしたね。中盤は層が厚かったし、ボランチは小林久晃くんとかがレギュラーやったんで。高原も左のハーフでプレーしてましたよ」
 
 チームは94年、U-16アジアユースを初制覇。余勢を駆って翌年、U-17世界選手権の開催地・エクアドルに乗り込んだ。グループリーグで1勝1分け1敗の勝点4を獲得したが、得失点差でわずか1ポイント及ばず、決勝トーナメント進出はならなかった。
 
 稲本は0-1で敗れた初戦の相手、ガーナが衝撃的だったと回顧する。スティーブン・アッピアーらを擁し、最終的に大会を制して世界チャンピオンとなるチームだ。
 
「いやもう、この世のものとは思えんくらい強烈すぎて。スピードであったり身体能力であったり、世界にはすごい連中がおるんやなと体感した。エクアドルはかなりの高所。事前合宿はペルーでやって、それこそ高所対策とかに取り組んだんですけど、まだ高1やったからなにもかもが新鮮で楽しかったのを覚えてる。光太郎くんとか試合中に目を怪我したのに、包帯をぐるぐる巻きにしてプレーしてた。それを見て感じるところは大きかったし、団結力もあって、いいチームでしたよ」
 
 高2になると稲本はガンバユースでも不動の軸となり、トップチームの練習にも参加するようになる。同級生の新井場徹とともにクラブユース界をリードする存在として、育成年代で注目を集めていく。96年秋のナショナルトレセンU-17ではMVPを受賞。やがてトップデビューを果たし、高3になるとJリーグでも活躍し始める。
 
 世代の中では、いわば別格となっていった。
 
 黄金世代が本当の意味でスタートを切ったのは、97年の春。清雲栄純監督のもと、U-18日本代表が始動した。稲本は5月の茨城国際ユースで初合流。ボルシア・ドルトムントユースの精鋭を向こうに回しても怯むことなく、攻守両面に堂々たるプレーを見せつけた。高体連で活躍していた小野や高原、本山雅志らは、この“高校生Jリーガー”の変貌ぶりを目の当たりにし、少なからず焦燥に駆られるのだ。
 
 まず稲本にとって、黄金世代とはどんな位置づけなのか。
 
「あの世代の仲間と一緒にプレーできて、一緒にいろんな経験をできたのは最高の財産。でも最初に合流した頃は、そんなにスゴいとは思ってなかったんですよ。それこそヤナギ(柳沢敦)さんとか、シュン(中村俊輔)さんとか、ツネ(宮本恒靖)さんとか上の世代もタレントが揃ってたし、Jで戦ったりしてましたからね。ただ、僕らの世代の連中はみんなスゴい自信を持ってましたよ。誰にも負けないぞっていう気概はそうとうなものだった」
 
 やがて主力の誰もがプロとなり、98年にはワールドユースのアジア予選(アジアユース)を戦った。タレント軍団はどこかで、アジアは楽勝だとタカをくくっていた。
 
「とにかくやってて楽しかった。日本代表やねんけど、遊び感覚でやってる感じ。1次予選は相手も強くなかったし、大勝のゲームばっかりでしたけど、その割にはスゴい応援してもらった。僕らは注目されてるんやなと実感しましたね」
 
 そして秋、アジアユースの本大会。タイのチェンマイで、彼らは現実を突きつけられる。たしかに日本は図抜けたタレント力を誇っていたが、それがピッチ上では共鳴しなかった。屈辱的だったのは、グループリーグと決勝で2度対戦したライバル韓国に、連敗を喫したこと。気づけば自信過剰な、慣れ合い集団に成り下がっていた。
 
「あれは悔しかったし、忘れられないですね。同じ相手に大会で2回も負ける。しかもそれが韓国やった。チームとして甘さがあったと言われてもしょうがないし、実際に個々が好き勝手にやってるところがあった。監督の言うこともあまり聞かないで、自分たちでなんとかできると思ってたのかもしれません」
 
 そんな甘ちゃんたちの元に送り込まれたのが、鬼の指揮官、フィリップ・トルシエである。98年の年末、清雲監督が辞意を表明。すでにA代表とシドニー五輪代表の監督を兼務していたフランス人が、ワールドユースを4か月後に控えたU-20日本代表の監督に就任したのだ。
 
 アジアユースの決勝を視察した際、トルシエはこう話していた。
 
「これだけの才能が集まっているのだから、日本サッカーの未来は明るい。だが技能に優れているだけで勝利は掴めない。彼らには、いや日本人選手には、狡猾さが足りないんだ。韓国に劣っている部分があったとすれば、まさにそこだとわたしは思う」
 
 突如として目の前に現われた、異星人のごときフランス人。黄金世代の誰もが強烈なファーストインパクトを感じたが、稲本はさほどでもなかったと振り返る。言うなれば、免疫があったのだ。
 
「アントネッティもたいがいやったからね」
 
 フレデリック・アントネッティだ。98年の夏から丸1年、ガンバ大阪で指揮を執ったフランス人指揮官である。アップ時を含めたすべての練習でボールを使い、洗練された最先端の戦術とメソッドを導入。指示は異常なほど細かく、動きが緩慢な選手には容赦なく罵声を浴びせた。ただ、稲本や宮本を筆頭に若手が中心だった当時のガンバとは、かならずしも相性が良くなかった。来るのが「少し早かった」のだ。
 
 その後にフランス国内で高めた声価を考えれば、アーセン・ヴェンゲルやルイス・フェリペ・スコラーリほどではないにせよ、Jリーグで指揮を執った世界的智将と言える。稲本も小さくない影響を受けた人物だ。
 
「トルシエはもちろん、アントネッティよりうるさいんですけど、フランス人はみんなそんな感じなんやろうと思ってたから、すぐ受け入れられた。指示が細かいところとかを含めて、僕としてはイメージ通りというか、あんまり違和感がなかったですね。いま思えば、あの練習はホンマに面白くなかった(笑)。延々と同じことを繰り返してましたからね。ただ、あの頃の僕らには必要だったのかもしれない」
 
 ナイジェリアでの躍進を期して、生まれ変わるU-20日本代表。ブルキナファソ遠征ではフラット3を軸とする斬新な戦術を身体に叩き込まれ、異国の地でさまざまな体験をすることで、チームの団結力も高まった。稲本はトルシエ監督の厚い信頼を受け、副キャプテンに指名されている。
 
 ところが、確かな手応えを経て帰国した稲本を悲運が襲う。
 
 Jリーグで膝の靭帯を損傷。世界大会は1か月後に迫っていた。
 
<♯3に続く>

取材・文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

※8月30日掲載予定の次回は、いよいよナイジェリア・ワールドユースでの核心に迫ります。怪我を抱えて乗り込んだ決戦の地で、稀代のボランチはなにを想い、ファイナルまでの日々をどう戦い抜いたのか。そして膨らんだ欧州挑戦への渇望──。こうご期待!
 
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PROFILE
いなもと・じゅんいち/1979年9月18日生まれ、大阪府堺市出身。自宅近くの青英学園SCで5歳から本格的にサッカーを始め、小6までFWや攻撃的MFでプレー。地域選抜に選ばれるなど頭角を現わし、G大阪の誘いを受けて、ジュニアユースチームの第1期生となる。やがてボランチにコンバートされて才能が一気に開花。クラブユース界の横綱として全国にその名を轟かせ、高3でJデビューを飾るなど時代の寵児となる。2001年から活躍の場をプレミアリーグに移すと、アーセナル、フルアム、WBA(半年間はカーディフにレンタル移籍)でプレーし、その後はトルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。2010年に川崎へ移籍し、日本に帰還。現在、札幌で3シーズン目を戦っている。世代別代表ではエリート街道を突き進んだ。U-17世界選手権、ワールドユース、シドニー五輪と3つの世界大会すべてにエントリーし、2000年2月には21歳でA代表に初招集。02年、06年、10年と3度のワールドカップを戦った。日本代表通算/82試合出場・5得点。Jリーグ通算/256試合・20得点(J1は217試合・19得点)。181臓77繊O型。データはすべて2017年8月23日現在。