警察優位で創設された「専守防衛」の陸自、旧軍と米軍との関係が深い海自。ルーツを知れば、現代日本の安全保障の実態が見えてくる

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 1954年に創設された自衛隊は今年で62年、前身の警察予備隊(1950年)から数えると66年となる。明治5年(1872年)に創設された帝国陸海軍(旧軍)は敗戦によって73年で終焉(しゅうえん)を迎えた。自衛隊はあと10年ほどで帝国陸海軍の歴史と並ぶことになる。

 旧軍は悲惨な結果となったあの戦争に至るプロセスにおいて重要な責任があり、多くの戦闘においても数多くの犠牲者を出す敗北を重ねた。そのため、その組織論上の問題は「失敗」を研究する題材にもなっている。では自衛隊はどうなのだろうか。人間でいえば還暦を超える歴史を持ちながら、一般の国民が得ている自衛隊に関する情報はそれほど多くはない。そこで、旧軍と比較しながら、自衛隊の歴史、組織文化、そして政治との関係といった点を順にみていくことにしよう。


今夏、内閣改造直前に辞任した稲田朋美元防衛大臣 ©文藝春秋

「生まれ」と「育ち」

 組織というものは成立と発展のプロセスによって大きな影響を受ける。旧軍もそうであるし、自衛隊も後述のように陸海空で大きく異なる組織文化を持っている背景には、創設・発展の経緯が違っていることがあげられる。まず旧軍から見ていこう。

 ヨーロッパを範とした近代的な軍隊を創設しようという動きは幕末にさかのぼるが、本格的な国軍の創設はやはり明治となり、1871年の御親兵(のちに近衛兵に改称)設置と全国4つの「鎮台」設置、翌年の陸・海軍省創設からと考えた方がよいだろう。ここから国民皆兵を前提とした旧軍の歩みが始まる。ちなみに、明治の初期は「海陸軍」と海軍が優先であったが、武士階級を中心とする国内不平派に対応して鎮台が設置される頃から「陸海軍」と陸軍優先となる。佐賀の乱から西南戦争へと至る不平武士階級の反乱に対応する必要があったためである。

 こうした陸軍優先は、西南戦争の鎮圧によって内戦対応の軍隊から「外征軍」へと変化していく時期になっても変わらなかった。海軍の整備には巨額の費用がかかるためであり、組織としての海軍が陸軍に対抗する存在になるのは、日清戦争に備えて海軍の充実化が図られていく頃からである。なお、陸軍が最初はフランス、のちにプロイセンを模範とし、海軍がイギリスを手本としていたことはよく知られている。大陸国家であるプロイセン(のちにドイツ)型陸軍に範をとり参謀本部を強化していく陸軍と、海洋国家であるイギリスを範とした海軍で組織文化が異なっていくのは当然でもあった。

 さて、のちに旧軍の政治的武器となっていく「統帥権独立」や「軍部大臣現役武官制」は、明治憲法制定前から整備されていく。戊辰戦争でも西南戦争でも最高司令官には文官が就いていたが、1878年の参謀本部独立以来、軍と政治との関係は大きく変化していく。詳述はできないが、それは山縣有朋という軍人政治家の存在なくしては考えられない。そして昭和期になると「統帥権独立」と「軍部大臣現役武官制」を使い、強引に政治をリードする軍部によって戦争への道を進んでいくことになるのである。

 次に自衛隊に移ろう。戦争放棄・戦力不保持をうたう戦後憲法の下での再軍備の開始点は、やはり1950年の警察予備隊の創設である。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)によって日本占領にあたっていた米軍が朝鮮半島に派遣されることになり、日本国内が空白になることを恐れた占領軍の指示によるものだった。警察予備隊は講和・独立後の52年に保安隊へと拡充・改組される。

 ただし警察予備隊は、法律上は警察軍のような組織であり、保安隊も外国からの侵略に対応することは役目とされていなかった。54年に創設された自衛隊になってようやく外敵への対処が任務となるのである。警察予備隊創設命令は、日本政府がまったく予期していない状況で発せられたものであり、文民統制(シビリアン・コントロール)の考え方もこの時に導入された。

 こうして準備不足で始まった再軍備が、その後の組織形成にも大きな影響を及ぼしていく。ここでは重要な2点に絞って見ていこう。

 第1に陸海空自衛隊で設立の経緯が異なっている点である。

 陸上自衛隊の前身は警察予備隊であり、創設にあたって旧陸軍の影響が及ばないように配慮された。部隊の指揮や訓練を考えると軍事専門家の存在が必要とされ、旧軍からも一部採用されることになったが、将官や戦争遂行に責任がある幹部クラスは排除された。

 一方、海上自衛隊の前身は海上保安庁に置かれた機雷掃海部隊であった。ここには業務の必要上、旧海軍軍人が入っていた。さらに米海軍の支援もあって、海上警備にあたる海上警備隊が創設され、保安庁設立に伴い、組織上も海上保安庁から離れて警備隊となり、やがて海上自衛隊となっていく。そのすべての過程で旧海軍軍人が関与し、海上自衛隊にも多くの旧海軍軍人が入隊していくのである。陸上自衛隊が旧陸軍軍人の影響力を極力排除して作られたのと対照的であった。海上自衛隊は旧海軍の伝統を色濃く継承している。

 航空自衛隊は、自衛隊創設にあたり旧陸海軍の航空関係者が米軍の支援の下に創設した。新規の組織であり、旧軍との関係はほとんどないといってよいだろう。こうした陸海空自衛隊の創設の経緯は、後述のようにそれぞれの戦略における相違となり、異なる組織文化を生む背景となっている。

 第2点目が文民統制の問題である。警察予備隊創設を担当したのは主として旧内務省の警察官僚だった。彼らは新設される組織が旧軍のようなものになることを警戒し、実働部隊(制服組)の権限を極力制限することに努めた。

 このとき、米国から文民統制の考え方が教えられたが、結局日本では、文民政治家というより、防衛行政を管理する組織(内局)の権限が極めて大きくなり、制服組の活動に対して「箸の上げ下ろし」にまで口を出すといわれる「文官統制」になっていく。


©文藝春秋

 しかも戦後平和主義の定着の下で、「軍隊=悪」というイメージも拡大していく。高度経済成長の時代になると、安全保障は票にならないとして防衛問題に無関心な政治家が多くなり、災害救援やオリンピックといった行事以外にはなるべく自衛隊を使わないようにするという考え方が定着していくのである。

 安保問題で国論が分裂した事態が繰り返されないように、防衛問題にはなるべく触れないようにし、自衛隊の管理運営は防衛官僚に任せるというのが冷戦時代の日本であった。この流れに変化が生じるのは冷戦終了後まで待たねばならなかった。

陸海空の組織文化

 旧軍を語るときに、よく言われるのが陸海軍の不仲ということである。どこの国の軍隊でも陸海軍の不仲ということは指摘されており、日本だけの問題ではない。しかし日本の場合は、戦略物資の取り合いだけでなく、相互不信が生じて陸軍が空母や潜水艦を建造した例に見られるように、戦争遂行にも問題が生じたことを考えると相当に深刻であった。

 その要因の1つに、陸海軍双方が別個に兵学校で教育を行い(陸軍は幼年学校から)、相互の理解がないまま軍務についていたことが考えられた。そこで戦後の保安大学校・防衛大学校では陸海空の別なく教育が行われることになった。また創設にあたって初代校長に慶應義塾大学の槙智雄が就任し、リベラルアーツを重視した教育が実施された。さらに現在では一般の大学から自衛隊に入る割合も高くなっている。こうしたことが、旧軍と異なって現在の自衛隊で、陸海空の風通しを良くしていることは、間違いないだろう。

 しかしそれでも陸海空の組織文化には違いが生じているのである。陸海空自衛隊について、その組織的性格の違いを述べた次の言葉をご存じの方は多いかもしれない。

陸上自衛隊:用意周到・動脈硬化
海上自衛隊:伝統墨守・唯我独尊
航空自衛隊:勇猛果敢・支離滅裂
 
 これには異なるバージョンもあり、「統幕:高位高官・権限皆無、内局:優柔不断・本末転倒、記者:浅学菲才(ひさい)・馬鹿丸出し」というのもある。これらは昔、防衛担当記者が作ったものらしい。防衛大学校では共通の教育を受けていても、それぞれの部隊で勤務していくうちに、その色に染まっていくのはよくあることである。それは自衛隊だけの問題ではなく、セクショナリズムの弊害が指摘される官僚機構にありがちなことと言える。

 重要なことは、組織文化の違いだけでなく、安全保障に関する考え方も異なっていることである。

 旧軍においては、陸軍はロシア・ソ連を仮想敵国と考え、海軍は日露戦争後はアメリカを仮想敵とし、陸海それぞれが軍備と戦略を考えていた。また大陸国家であるドイツ陸軍を範とする陸軍は北進論、海洋国家イギリス海軍をモデルとする海軍が南進論を唱えていたことはよく知られている。北方のソ連をにらむ戦略を考えていた陸軍が、アジア太平洋戦争では急に太平洋での島嶼(とうしょ)戦に取り組むことになったわけである。アメリカと戦うこともほとんど想定しておらず、島嶼戦への研究も不足したまま戦争に突入したのであった。

陸自と海自では戦略が違う

 こうした戦略の相違という問題は、自衛隊にも存在している。

 前述のように陸上自衛隊は旧陸軍の復活とならないようにして創設された。しかも、外征軍であった旧陸軍と異なり、本土にはりついて防衛戦を専門に行う部隊として訓練され発展してきたのである。講和・独立後に米国から再軍備の強い要請が行われた時期、米国が主張する32万人の部隊案を拒否し、18万人案を主張したのも、日本の部隊は海外遠征をしないために米軍のような補給部隊が必要ないからという理屈であった。陸上自衛隊は外敵からの侵略に抵抗し、米軍が来援(らいえん)するまで持ちこたえるというのが主たる戦略であって、本土防衛以外は考えられないわけである。「専守防衛」という言葉があるが、陸上自衛隊にまさに当てはまる。航空自衛隊も、本土防空が主任務である点は陸上自衛隊と同じと考えていいだろう。

 陸空の本土防衛中心論と異なっているのが海上自衛隊である。海上自衛隊は旧海軍軍人が米海軍の支援を得て創設していった。その際に基本的方針となっていたのが、米海軍と協働する小海軍を作るということだった。

 創設期には、旧海軍のミニチュアのような組織編制も議論されていた。しかし実際には対潜水艦作戦に特化した部隊として整備されていくのである。空母部隊を主力とする米太平洋艦隊にとっても、ソ連の潜水艦部隊は脅威であった。それは現在の米海軍と中国海軍の関係にも当てはまる。冷戦時代の海上自衛隊の主任務は、ソ連潜水艦部隊がウラジオストックから出航して太平洋に出る通り道、すなわち津軽・宗谷・対馬の3海峡を封鎖することだった。

 海上自衛隊は、接近・上陸する外敵の輸送船団を攻撃するのではないかと思われるかもしれないが、冷戦時代の海上自衛隊の装備は大型の水上船舶を攻撃することをあまり考えたものではなかった。

 それが象徴的に示されたのが、74年11月の第拾雄洋丸というLPGタンカーの撃沈問題だろう。リベリア貨物船と衝突し、死者33名をだして炎上を続ける同船を沈没処理することになり、海上自衛隊が最終的にその処理を担当したのである。結局、11月27日から攻撃を始めて撃沈するのに翌28日の夕方までかかってしまった。いかに船内に多くの区画があって沈みにくい4万トン超のタンカーとはいえ、時間がかかりすぎだという批判が海上自衛隊に寄せられた。しかしこれは船舶攻撃用の大口径の砲をあまり持たず、魚雷も対潜用といった具合に、船舶攻撃ではなく潜水艦攻撃を主眼とした海上自衛隊にとってはやむを得ないことでもあったのである。

 こうして海上自衛隊は創設のころから、米軍との協力というのが基本方針であった。一方で陸空は米軍来援まで自力でいかに戦うかに主眼が置かれた。

 したがって訓練などで米軍と協働することも多い航空自衛隊はともかく、陸上自衛隊が米軍との共同作戦といったことを研究していくのは冷戦時代も終わりのころからであった。80年代はレーガン政権が誕生し、第二次冷戦ともいわれた時期になっていくが、そこで米国から求められた防衛協力の主役は、やはり海上自衛隊だったのである。

 以上のような安全保障戦略の相違は、冷戦が終わってソ連という「仮想敵」がなくなったことによって変化した。現在は、2001年の同時多発テロを契機に実施された対テロ作戦やイラク戦争後の復興支援活動などに自衛隊が参加し、統合運用している米軍との協働が多くなることで自衛隊も統合運用が進みつつある。それは海外での災害支援に始まり、2011年の東日本大震災においても陸海空の統合作戦が実施された。現実の必要性に直面し、これまであった陸海空の壁も薄くなってきているようである。

日本的政軍関係の今昔

 旧軍と自衛隊との対比で、もっとも異なっているのは政治との関係だろう。旧軍は「統帥権独立」や「軍部大臣現役武官制」を武器に政治に介入したが、自衛隊は政治に関与するにはいくつもの障壁がある。

 自衛隊のことを述べる前に、「統帥権独立」と「軍部大臣現役武官制」を簡単に復習しておこう。

 統帥とは軍令、作戦といった軍事的指揮・命令のことと理解してよいだろう。「統帥権独立」は明治憲法第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」という条項を土台にしている。ただ、明治11年(1878年)の参謀本部独立以降、政治が統帥に関与することは実質的にできなくなっていく。本来政治が関与できないはずの統帥に干渉したとき「統帥権干犯」という批判が行われることになった。1930年のロンドン海軍軍縮会議がその好例であった。

 特に問題となっていくのは満州事変後である。柳条湖事件以後、関東軍の作戦行動に対し軍中央部も事後承認していく。これ以降、軍が独断専行して軍事行動を起こしても統帥権の名の下に政治の関与を許さず、統帥権は軍が自由に行動するための免罪符になっていくのである。のちに大本営政府連絡会議が設けられ、戦略と政略の一致が図られたが、軍部は必要な情報を政府に与えず、結局うまく機能しなかった。

「軍部大臣現役武官制」は陸海軍の大臣は現役の武官でなければならないということである。内閣の方針が気に食わないときには大臣を辞任し後任を出さないことで、あるいは気に入らない内閣ができそうなときには大臣を出さないことで倒閣の道具となった。1937年の宇垣内閣流産問題、畑陸相辞任による米内光政内閣倒壊など、主に陸軍が政治的武器として使用した。

 自衛隊は旧軍のような政治関与ができるかというと、現状の法制度からは無理であろう。自衛隊は厳密な文民統制の下に置かれて勝手な行動はできない。しかも前述のように日本の場合は防衛省(以前は防衛庁)内局による「文官統制」が行われていた。

 すなわち、大臣(長官)の補佐機関は内局と制服組の幕僚監部だが、大臣指示に基づいて幕僚監部は補佐することになっており、その指示は内局が作成するのである。文官が、専門的要素が強い軍令関係の内容にまで関与するのは、諸外国にも例を見ない特異な構造であった。

 こうした文官統制は、実は2015年に行われた防衛省改革によって修正され、現在は文官と制服組の関係がより対等になっている。しかしそれは文民統制が壊れたというのではなく、自衛隊が実際に活用される時代になったことにともなう、現実に即した改革といってよいだろう。

「防衛出動」の高いハードル

 自衛隊が旧軍のように独断専行しないかという問題はどうだろうか。これも無用の懸念だろう。現在は統帥権の独立は認められておらず、自衛隊は文民統制の下にある。さらに自衛隊の行動にはきびしい法的な制約があり、むしろ政治家が責任ある行動をとるかが問われている。

 防衛に関する自衛隊の行動は、主として「治安出動」(海上自衛隊では「海上警備行動」)と「防衛出動」である。ただし自衛隊が軍事的行動をなしえるのは「防衛出動」が発令されたときであり、「治安出動」でできるのは警察行動である。


護衛艦「いかづち」 ©文藝春秋

 つまり自衛隊は「防衛出動」が発令されなければ、いかに強力な武器を持っていても警察官と同様にしか行動できないということである。これまで「海上警備行動」は発令されたことがあるが、「治安出動」はまだない。「防衛出動」が発令されるハードルはかなり高く、逆に言えば、緊急事態に対応できるのかという不安もささやかれている。

 2003年に有事法制が成立するまでは、もっと問題は深刻であった。上陸してくる敵を眼前にしたとしても、「防衛出動」が発令されなければ自衛隊は何もできないことになってしまう。

 そういう時には「超法規的」に行動せざるを得ないと主張した栗栖弘臣統合幕僚会議議長は解任されたが(1978年)、現在でも治安出動から防衛出動に至る間の問題、すなわちグレーゾーンでの対処に関する問題は解消されたわけではない。

 草創期から冷戦時代にかけて、自衛隊はなるべく使わないように考えられていた。いかに行動を制限するかが重視されていたため、自衛隊の行動にはさまざまな縛りがかけられていたのである。実際に使われるようになると不具合が多く、今は現実に対応してそれを少しずつ外している状況といってよいのである。

自衛隊は軍隊になるのか

 旧軍と自衛隊でもっとも異なる点は、旧軍が多くの戦争を経験したのに対し、自衛隊は幸いにも一度も実戦を行っていないということである。しかし今後もそうであるという保証はない。

 自衛隊は冷戦終了後、大きく変化しつつある。予算は削減され組織規模が縮小される反面、国際協力をはじめとして任務は拡大する一方であった。安倍内閣になって予算削減から微増になったが、大幅な増額は期待できそうになく、任務はますます増えそうである。

 2015年の防衛省改革で、前述のように文官と制服組の関係も大きく変化した。集団的自衛権の限定的行使容認については賛否が分かれているが、力による現状変更を望む勢力が強引にふるまい、多国間の協力体制が求められている状況への対応は必要なことである。

 もしかすると、自衛隊が戦闘を経験する日が迫っているのかもしれない。戦後長く「文官統制」やさまざまな法制によって縛られてきた自衛隊は、国際環境の大きな変化によって、普通の軍隊のようになるのだろうか。

 政治が旧軍をコントロールできなかったことが、悲惨な戦争に至る大きな要因であった。その反省に立つとき、今こそ日本にふさわしい「文民統制」の在り方が求められているといってよいのではないだろうか。

(佐道 明広)