結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

結婚したら、母親と同じように専業主婦になることに疑いを持っていなかった志穂。だが、家事・育児をまったく手伝わない夫・康介に不満を募らせていた。




久しぶりに会った友人が眩しく見えた日


「お待たせ!」

何をするでもなくSNSをぼーっと見続けていた志穂の肩を、学生時代からの親友・聖羅がぽんと叩く。

今日は、久々にランチをしようと六本木まで出た。

「聖羅、本当に綺麗になった…。」

心の中のつぶやきが、思わず口から漏れた。

やだ、そんな褒めてくれても、と照れる聖羅の髪はたっぷりと艶めいて、流れるカールの先端まで美しい。

対して、自分はどうだろう。それなりにトレンドを押さえた服で来たつもりだったが、やはり現役で働き、恋愛市場に残っている聖羅との「みずみずしさ」の違いは明らかな気がした。

仕方がない。自分は、もう母になったのだからー。


久しぶりに会う旧友と自分の差に、ショックを受ける


嬉しいけど、何かが違う。


今日、娘のひなは母が見てくれている。

出かける時に多少ぐずったものの、今はお利口に遊んでいるらしい。

先ほど母から届いたLINEには、デパートのおもちゃ売り場で満面の笑顔を見せるひなの写真も送られてきていた。

志穂はホッと胸を撫で下ろす。これで、罪悪感を感じることなく聖羅とのおしゃべりに興じることが出来るだろうと。

志穂は母になってから、娘を預けて自分だけが何かを楽しむことに後ろめたさを感じるようになっている。

ハッキリとした理由など、特にない。

「小さな子供を放って遊びに行くなんて母親として失格だ」という空気が未だに蔓延している気がするからか…。そしてそんな無言の圧を、自分が勝手に感じ取っているだけかもしれない。

だが、ひなは今、楽しんでいる。そう聞いて、志穂の心は少しだけ軽くなる。

そして気分を変えようと、店内をぐるりと見回した。

「それにしても、ここオシャレだね。」

今日は、日本に初上陸したという、N.Y.で人気の店『カフェ・ジタン』を聖羅が予約してくれていた。志穂は、こうした新しい店を開拓するアンテナも失っていることに、改めて気がつく。




「私、子供を産んでから全然こういうオシャレなお店、来なくなっちゃって。ママ友と行くところは、子供連れでもOKな場所ばっかりだし。」

志穂が愚痴っぽくなっているのを気遣ったのか、聖羅が口を開く。

「何言ってるの!志穂、子供一人産んでるのにママには全く見えないからね。」

ーママに見えない。

最近、雑誌でも、ネットでも、「ママに見えないママ」というのが褒め言葉になっている。

一昔前の母親像に比べて、出産後もガクンと所帯染みたりせず、身綺麗に、まるで独身時代のままのような体型を保つ母親たちのことをそう指すのだろう。

志穂も出産し、ある程度まとまった睡眠が取れるようになってからは、29歳という年齢もあって以前と同じように着飾ることや美容に興味を持っている。

そうして外見に気を使っていると、独身の友人らはこぞって「ママに見えない」と褒めてくれた。

初めこそ嬉しかったが、志穂はそのうち、その言葉だけでは満たされなくなっていく。

若くして結婚し、家庭に入り、子供を産んで、「ママに見えないね」と褒められても、満たされない何か。

欲しかったものを全て手に入れたというのに、家庭は上手くいっておらず、喧嘩したままの夫の康介からは連絡もない。

親友の聖羅は、半導体や楽器などを手広く手がける大手メーカーに勤めている。少しずつ責任のある仕事を任され始めているという聖羅は、実に生き生きとしていた。

美しいから、だけではない魅力を感じたのだ。

寿退社をした自分は勝ち組だと信じていた。だが、志穂の中でその思いがぐらつき始めた。


親友に影響され、仕事を探す志穂


世間はそんなに甘くない


「お母さん、私、家に帰るよ!」

ランチから帰宅し、ひなを抱き抱えながら急いで身支度を始める志穂を見て、母は目を丸くしている。

「仲直りしたの?良かったじゃない!ほら、ひなちゃん抱っこしててあげるわよ。」

そういうわけじゃないんだけど、という言葉は飲み込んで、志穂は素早く自分の服や荷物を詰めていく。

ひなはご機嫌そうに母に抱かれ、何が楽しいのか忙しそうにしている志穂を見てキャッキャと笑っていた。

聖羅と会って刺激を受けた志穂は、自分に何が足りないのかに気がつき始めていた。

仕事を探すのだ。それから、保育園も。




子育てと、家を守ることで満足出来るタイプの女性もいるだろう。子育ては発見の連続だし、子供は文句なしに可愛い。

だが、手のかかる2歳児の世話を毎日100パーセント笑顔でこなせるかと言われたら、志穂の答えは否だ。

独身時代は、毎日を「自分のペース」でコントロールできた。

会社帰りにどこかに立ち寄ったり、ゆったりと半身浴を楽しむんだり、思い立った時にすぐに友人に会えることも出来る生活。

人並みに働き、自分が欲しいものは、自分の意思で、自分の判断で買えた。

もちろん、仕事の葛藤や悩みもなかった訳ではない。煩わしいことが重なり、仕事から結婚に逃げたくなったのも事実だ。

だが、一歩家庭に入ってしまえばどうだろう。

自由だと感じていた日々は、実は窮屈な制限の中で繰り広げられている。

そのストレスが、知らず知らずのうちに自分の心を蝕み、康介に当たってしまったのかもしれない。

こんな生活は、もうお終いにしよう。

「ねぇ、志穂。一体どうしたの。」

異様な雰囲気を察してか、母から尋ねられた。

「私、仕事を探そうと思って。やっぱり、ずっと家にいるのが性に合ってなかったのよ。」

興奮してまくしたてる志穂とは対照的に、母の表情はわかりやすく曇る。

「…ひなちゃんはどうするの。」

保育園、探そうと思うけど…と答えると、母は大袈裟にため息をついた。

「あのねぇ、あなたの悪いクセだけど、思い立ったら何も考えないですぐに行動しようとするでしょう。でも、今はひなちゃんがいる。せめて3歳までは、お家でしっかりひなちゃんの面倒見てもいいじゃない。」

昨日は尊敬の目で見ていた目の前の母が、急に憎たらしい分からず屋に変貌して見えた。

だが、今の志穂には母を説得する時間さえ惜しい。「そうだよね」とだけ答え、逃げるようにして駒沢大学駅の自宅に戻った。

帰宅し、ひなを膝の上に乗せながら、とりあえず子供を預ける場所を探そうと近隣の保育園に片っ端から電話をする。

「もしもし。今って2歳児クラスの空きがないかと…。そうですか。はい…。ありがとうございました。」

予想はしていたものの、答えは、もちろん「空きなし」だ。

巷には、既に仕事を持っているのに保育園に入れない母親たちで溢れている。専業主婦が仕事がない状態で預け先を探すなど、無謀でしかないのかもしれない。

だが、ここで諦めるわけにはいかなかった。

諦めきれずネットで「ママ 仕事 子連れ」と検索していると、あるページが目に止まる。

「子供を育てながら、自宅で週3だけ働く暮らし…?」

そのページには、ロングヘアを綺麗にセットし微笑む美しい女性の写真の横に、「ママこそ起業!専業主婦でも大丈夫、イチから教えます」という文言が踊る。

「これだ…!」

疲労と焦りで思考力が低下していた志穂は、思わず初回の無料セミナー参加フォームに個人情報を記入してしまうのだった。

▶NEXT:8月31日 木曜更新予定
SNSで異様な光を放つママ向けセミナーに行く志穂。