夫の難病と死。すべてを失って帰国…NYで成功したアケミさんの激動人生

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 1989年に何のツテもないニューヨークに渡り、ニューヨークコレクションなどで活躍した日本人ファッションデザイナー、アケミS・ミラーさん。

 2013年に帰国し、現在は大阪でフェイスデザインスクールを運営しています。帰国した理由は、最愛の夫、ロイ・ミラーさんの壮絶な死でした。

 前回に続き、波乱の人生と、愛する人を失う体験について話を聞きました。

◆一流の条件は「最後まで走りきる体力」

 ニューヨークコレクションを通じてプレスの方々から「プレッシャーはなかった?」とよく聞かれます。私の人生は、常に目の前にある課題を実行に移すことで精いっぱい走り込んで来た人生で、回りがどう評価するかは二の次で来ました。だから、人が思うような過度なプレッシャーを感じたことがないんです。

 そんなコレクションと長年向かい合っていると“あること”にも気づきました。最後まで走り切れる体力があるかどうかです。徹夜が当たり前の作業を続けていると、体力が持続しなければ集中力が途切れて小さなミスも見逃してしまう。

 この時代の一流デザイナーたちは、自分の体力の調整も仕事の課題で、それが前提にあって一流に上り詰められるのだと思います。

◆夫が難病に…つらい看病の日々

 もちろん、精神的に安定した環境づくりも大切。第2回でもお話しましたが、夫の米国人弁護士、ロイ・ミラーが私の精神的な支柱で、彼がいなければ私がニューヨークで成功を手にすることはなかったでしょう。

 ところが、今から約6年前。ロイが肺高血圧症という難病におかされてしまった時から人生は思わぬ方向へと変わっていきます。病状は日々悪化していくばかりで、まず目が見えなくなり、階段を上がろうとすると呼吸困難になり動けなくなりました。

 発作が始まると苦しくて、高層階の窓から飛び降りようとします。今まで楽しんでいた高層階の生活はもう何の意味も持たなくなりました。

 迷いはまったくありませんでした。一度も郊外に住んだことがない私達はマンハッタンを出て、彼を看病するために、緑豊かな郊外の一軒家に引っ越したのです。健康であれば山の生活を楽しめたのでしょうが、難病の夫と共にそこで生活をスタートするのは容易な事ではありませんでした。

 彼は病院通いを続けながら、亡くなる5日前まで腹水でパンパンのお腹を張らせながらも裁判所に出向きました。最後は殺人事件の加害者側の弁護士として法廷に立ったのです。

◆夫の死で、すべてがどうでもよくなった

 約2年の闘病の末にロイは亡くなりました。絶望感と喪失感で、私は生まれて初めて何も考えられなくなり、すべてがどうでもいいと思いました。

 ニューヨークから一刻も早く離れよう。お葬式を終えてすぐ、私はロイとの思い出いっぱいの品々を倉庫に残したまま、すべての財産を放棄。ロイの遺骨の一部だけを抱きかかえて2013年に日本に帰国しました。人生で一番大切なものをなくしてしまった時、人はどんなものにも興味がなくなり、必要もなくなります。

 5つの会社の維持費と治療費でキャッシュはすべて使い果たしました。でも、この話をすると人はこう言います。

「財産を売れば良かったのでは?」

 確かにシャガールの絵画だってありましたし、ジュエリーを売ればいくらかのお金になったでしょう。高価な車もありました。でも、私にはもう最後の気力が残っていませんでした。お葬式をしてロイを見送った時が私の最後の力でした。

 夫を助けられなかった自分。ロイのいない人生…。2013年に帰国してからも、生きたいとも死にたいとも思わない毎日でした。とりあえず生きている、私だけが生きている。