ジウジアーロをプロデュースした男、
宮川秀之氏が幻の名車アズテックとともに長野県上田の地に登場!【特集・コラム:イベント・モーターショー】

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日本メーカーとジウジアーロを結びつけたのはこの人!?知らぜらるレジェンド、宮川氏とは?

 2017年7月、長野県上田市にある丸子中央病院の1階ロビーで「宮川秀之トークショー」なる車関係のイベントが行われました。とはいえ、宮川秀之氏と聞いて「ああ、あの人」と分かる人はいかにクルマ好きといえどもそんなには多くないのではないでしょうか。

 それもそのはず、宮川氏は1960年にイタリアに渡って以来、現在に至るまでイタリアで活躍している日本人なのです。その活躍の範囲は、自身のワイナリーをトスカーナに構えてのワイン生産からアフリカでの孤児院経営まで、非常に多岐にわたっています。

 しかし、やはり最も特筆すべきなのはあのイタリアのカーデザイン界の巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロと若い頃に出会い、彼のデザイン会社「イタルデザイン」の設立にたずさわったことでしょう。もう50年以上前のその時の秘話が今回のトークショーでたっぷりと明かされました。

 自動車ジャーナリストのこもだきよし氏の司会で1時間以上に及んだ波乱万丈の物語、とても全部は書ききれないので簡単にご紹介いたします。

マツダ・ルーチェ、いすゞ・117クーペ・・・、数々の名車は宮川氏がイタリアにいたからこそ生まれた!

 1937年生まれの宮川氏がイタリアに渡ったのは1960年のこと。地元で行われた浅間火山レースに触発され、いつかオートバイで世界一周をしたい、という思いからでした。そのままイタリアに居座ることになった宮川氏は、日本の企業や有名人とヨーロッパとの橋渡し的な役割を果たす仕事をつぎつぎ始めます。

 そんな中、乗り物好きな宮川氏は「ゴードン・キーブル」という今は亡き英国の自動車メーカーの車を見にトリノ・モーターショーに出掛けたのでした。そして、カメラを構えた宮川氏に、チャンとした写真を撮れよと声を掛けたのが、その車をデザインした若き日のジウジアーロだったのです。この出来事が二人を結びつけました。

 そしてその後、ヨーロッパの車づくりを学びたい日本のマツダといすゞからエンジニアの派遣先の相談を受けた宮川氏は、当時ジウジアーロがチーフを務めていたカロッツェリア・ベルトーネを紹介します。その縁もあってジウジアーロがデザインした車が、やがてマツダ初代ルーチェ、いすゞ117クーペとして世に出ることになったのでした。

そして「アズテック」へ・・・、コンセプトカーではなく50台の実売をもくろんだ幻の名車!

 ベルトーネからカロッツェリア・ギアに移籍したジウジアーロでしたが、どちらの会社も車の生産部門を持っていることに不満を感じていて、純粋にデザインだけを売り込む会社で働きたいと思うようになりました。そして、相談を受けた宮川氏の協力のもとに自らの名前を冠したデザイン会社「イタルデザイン・ジウジアーロ」を設立。それからの活躍は皆さんご存じのとおりです。

 そんなジウジアーロ活躍の場をプロデュースした宮川氏でしたが、1988年、再びジウジアーロと日本とを結びつける壮大なプロジェクトを企画します。それが、この日トークショー会場に展示されていた幻の車「アズテック」。50台生産し、1台1億円前後の値段で全て日本で売る計画でしたが、残念ながらバブル景気がはじけて生産台数は半分以下にとどまりました。日本に上陸したものもわずかだったといいます。

 イタリアで活躍してきた日本人のそのような歴史秘話を、日本はおろか世界でもめったに見られないジウジアーロデザインの名車を眺めながら聞く・・・。会場の穏やかな雰囲気とも相まって、クルマ好きにとって贅沢な至福の時間を過ごすことが出来た、大満足のトークショーだったのでした。

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