【書評】『影裏』/沼田真佑・著/文藝春秋/1000円+税

【評者】鴻巣友季子(翻訳家)

 作者のデビュー作であり、芥川賞受賞作である。じわりと浸みてきてとり憑く。語り手は医薬会社の非正規社員で、盛岡の支社に出向してきて数年。家族も恋人もなく、初めは親しい友人もいなかった。ところが、同僚の「日浅」という男と話すようになり、たがいに釣りや日本酒の冷やが好きなことから、「親密な」つきあいになっていく。

 日浅は車の運転が得意で山道に明るい男だが、奇妙な性癖があった。あるとき釣りに出かけると、水楢の巨大な倒木が行く手をふさいでいる。日浅は「通学路上に鳩の死骸でも見つけた子供」のように、嬉々として倒木に馬乗りになり、周径を測ったりする。彼には「ある巨大なものの崩壊に陶酔しがちな傾向」があり、火事も一棟二棟の被害なら冷淡だが、大規模な林野火災には目を輝かす。そんな日浅に、語り手は魅入られる。

 語り手には、転勤前に恋人がいた。いまも、妹に結婚報告をされると、自分もこんなふうに恋人を家族に紹介していれば結婚に至ったのではないか、と思ったりする。ちなみに、元恋人は「和哉」という(当時は)男性で、現在は性別適合手術により心身共に女性──ということも、ごくさらりと書かれている。

 東日本大震災が物語に大きな転換をもたらす。語り手は、行方不明になった日浅を探す途上、彼の父から、幼少時の公園での「おぞましい」逸話を聞かされるのだが、なにがそんなにおぞましいのか分からないところがおぞましい。しかも、父は日浅をとうに勘当し、長らく会っていないというわりに、彼の現状や行く末について、やけにはっきり断言する点も不気味だ。そして、床に落ちていたあるものが気になる。

 しかし思えば、私たちはなにをもって「異様」だとか「普通」だとか言うのだろう。当然こうだという思い込みを『影裏』は次々と軽くいなしていく。そう、ここまで、語り手は男でゲイだと思って読んでいた方々、ひょっとしたら違うかもしれませんよ!

※週刊ポスト2017年9月1日号