「Thinkstock」より

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 脱時間給制度について、依然として一部に根強い反対論があるようだ。新しい制度に伴う懸念がいろいろあるのはわかるが、そもそも脱時間給制度を含む「働き方改革」の議論が、ほとんど「休み方改革」になっているような気がしてならない。もっと休みたい人の権利を守るのはいいが、もっと働いてスキルを上げ、キャリアアップしたいと思っている人だって少なからずあるはずだ。そういう人の権利はどうなっているのだろうか。

 脱時間給制度は、別名「高度プロフェッショナル制度」と呼ばれているが、こんなことでは会社員がプロフェッショナルになることなどほとんど無理な話だ。プロになるどころか、時間で測れる仕事なら、すべてAIに取って代わられるだろう。

●成果主義は必然的な流れ

 私は、論理的に成り立たないことは早晩破綻すると思っている。人間の力など自然の摂理に敵うはずがないからだ。そういう観点からすると、時間で給料が決まる仕組みは早晩破綻するはずだ。給料は富の分配である以上、富と相関性のない尺度で富を分配することは論理的に成り立たないからだ。

 作れば売れた時代ならまだしも、現在のほとんどのビジネスは時間をかけたからといって売上が増えるわけではない。時間をかければむしろコストを発生させて、利益を減らしかねない。それなのに時間に応じて給料を払っていたら、経営が成り立つわけがない。だから、成果主義は必然的な流れなのである。

 ただ、「成果主義」というと、ほとんどの人は売上や利益という財務的成果を思い浮かべる。実際、多くの企業で採用されている成果主義とはそういうものだ。なかには、「営業部門は売上で評価できるからいいけど、コストしか発生しない経理部門や総務部門はどうやって評価したらいいんですか? コストの削減額しかないじゃないですか」などという人もいる。

●非財務的成果主義のススメ

 成果を財務的指標だけで測ることには無理がある。特定の部署や特定の人が売上高や利益を生み出しているわけではないからだ。「営業部門は売上で評価できる」というのも幻想だ。営業部門は顧客に一番近いところにいるだけであって、営業部門の人が売上を生んでいるわけでない。営業部門の人が売っているものは製造部門がつくったものだろうし、営業部門が営業のことだけ考えていればいいのは、総務がバックオフィスを支えているからだ。売上や利益は、組織が総体となって生み出しているというのが現実なのだ。

「誰のおかげでメシが食えてると思ってるんだ!」などと偉そうに言うおじさんも、奥さんが家庭を支えてくれているから仕事ができていることを忘れてはならないのだ。

 そもそも、売上高や利益などの財務的成果は直接コントロールできない。直接コントロールできないのに、それをなんとかしろと言うから、不正にもつながるのだ。実際、東芝も富士ゼロックスも、売上や利益に対する過剰なプレッシャーが不正会計の温床になっている。

 コントロールできるのは行動だけだ。財務的成果はそれに反応して生まれるにすぎない。そうであるならば、少なくとも担当者レベルは「何をすべきか」という行動指標で測られるべきだ。行動指標のような非財務的指標の成果で測れば、営業部門だろうと経理部門だろうとまったく同じように評価できる。

●前提となる役割定義

 非財務的指標で成果を測るためには、各部署の役割を定義することが必要だ。「各部署の役割なんて、大体決まっているじゃないか」と思ったら大間違いだ。ある会社では、社長が「ウチの経理部の仕事は決算業務ではない」と公言していた。その社長が経理部に望んだのは、会計情報を経営に生かす経営参謀としての役割だ。だから、多くの会社で「これぞ経理の仕事」と思われている決算関連業務をどんなに一生懸命やっても、その会社では評価されない。

 営業部門も、「売上高よりも倫理的行動が優先する。倫理的行動を優先するならば、売上高をあげなくてもよい」という行動指標が明確にされていれば、数々の不正も防げるだろう。

 各部署の役割定義は、経営者にしかできない仕事だ。経営者が定義した役割を各部署が遂行しても財務的成果が上がらなかったとしたら、それは役割定義が間違っているのであり、経営者の責任である。その責任を放棄して、担当者に財務的成果を求め過ぎるからおかしなことになるのである。少なくとも担当者レベルは、役割定義に基づく非財務的成果を上げたら、それで評価されるべきなのである。
(文=金子智朗/公認会計士、ブライトワイズコンサルティング代表)