古河公方の本拠だった古河城の遺構(茨城県古河市、出所:)


 先週、夏休みスペシャルとして「『応仁の乱』よりも前から鎌倉は戦国時代だった」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50787)「かつて湘南ビーチは合戦の舞台だった!」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50789)という2本の記事を掲載しました。歴史マニアの筆者が、室町時代における鎌倉府の成り立ちと足利幕府との関係を中心に、関東地方がどのようにして戦国時代へと突入していったのかを紹介する内容でした。

 これらの記事が思いのほか好評で、「面白かった」「ぜひ続きを」という声をいただきました。そこで今回は続きとして、関東が実質的に戦国時代へと入り、関東の武士たちが東西真っ二つに分かれて約30年にもわたり争った享徳の乱について紹介したいと思います。

 なお、筆者は現在、中国・上海に住んでおり、前回コラムを見た友人からは「なんで上海にいながら鎌倉の歴史について語ってんの?」と言われました。

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鎌倉府の内部抗争がエスカレート

 室町時代、西日本と中日本を支配する京都の足利幕府に対し、実質的に東日本を支配し半ば独立政権めいた権力を持っていたのが鎌倉府です。その長官である鎌倉公方(かまくらくぼう)の4代目に当たる足利持氏(あしかが・もちうじ)が足利幕府に反抗したことから足利幕府により討伐され、鎌倉府は一度滅亡しました(1438年、永享の乱)。

 しかし独立心の強い関東武士たちを足利幕府は支配しあぐねました。また、彼らからの強い嘆願を受ける形で、持氏の遺児である足利成氏(あしかが・しげうじ)が鎌倉公方に担ぎ上げられ、鎌倉府は再興を認められました。

 こうして再興された鎌倉府でしたが、内部では成氏を支持する成氏派と、その補佐役である関東管領(かんとうかんれい)を代々務める上杉家を支持する上杉派が激しく対立していました。対立はエスカレートし、成氏は関東管領派によって襲撃を受けています(1450年、江の島合戦)。

 この時は京都の幕府の仲裁により、一旦、両者は矛を収めるものの、その後も内部抗争はくすぶり続け、1455年に成氏は時の関東管領である上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)を謀殺してしまいます(鎌倉・西御門にあった成氏の屋敷で殺害。憲忠は享年22歳)。この謀殺をきっかけに両派の争いは決定的となります。

 こうして、“関東における応仁の乱”こと「享徳の乱」(1455〜1483年)の幕が切って落とされたのです。

成氏が「古河公方」に

 成氏派は憲忠を謀殺すると、余勢を駆って動揺する上杉家への攻撃を始めます。突然当主を討たれた上杉家の面々はこの事態に機敏に対応し、成氏派を上回る兵力を集めたのですが、現在の東京都府中市付近で行われた会戦(分倍河原の戦い)で成氏軍に大敗してしまいます。

 敗戦後、本拠地の北関東へと潰走した上杉軍を、成氏は追撃します。しかしこの隙を突かれる形で、成氏の本拠地であった鎌倉が、京都の幕府から成氏討伐を命ぜられた駿河(現静岡県)守護の今川家の軍勢に攻撃され、攻め落とされてしまいました。

 退路を断たれた成氏は、上杉家への追撃を一旦止め、自らの支持者が周辺に多くいた現在の茨城県古河市の地へと移り、ここに本拠地(古河公方館:こがくぼうやかた)を置き、その地名になぞらえその後「古河公方」と呼ばれることとなります。一方、上杉派は現在の埼玉県本庄市にあたる五十子(いかっこ:「いらこ」「いかご」と読まれることもある)に本陣を置きました。

 これ以降、両派はちょうど利根川を境にして東側を「成氏派」、西側を「上杉派」が長年にわたり睨み合う形となります。

蚊帳の外だった「堀越公方」

 一方、京都の幕府では、関東での争乱勃発が報告されるや、上杉家を支持して事態収拾を図る方針を決定しました。そして時の将軍であった足利義政(あしかが・よしまさ)は、異母兄である足利政知(あしかが・まさとも)を鎌倉公方に任命し、討伐軍とともに関東へ派遣することを決めます。政和を上杉家の新たな旗頭にして、騒乱を終結させようとしたのです。

 しかし、結論から言うと、この政知の派遣はグダグダな結果に終わります。

 当初は政和とともに討伐軍も派遣される予定でした。しかし、討伐軍の大将に指名された大名(斯波家)は領国内で内乱が起きて軍勢を派遣できなくなりました。

 仕方なく政知は、軍勢なしで側近とともに鎌倉へ向かいます。ところが、政知が連れて来た側近と、政知を新たな主として迎えることを疑問視する上杉家との間で、ことごとく意見が対立します。しまいにはののしり合いにまで発展して、関東の諸将からの信頼を失った政知は鎌倉に入れてもらえず、結局、堀越(ほりごえ、ほりこし:現静岡県伊豆の国市)という場所に留め置かれる羽目となります。

 政知は堀越に腰を据えて、そのままそこに政庁を置いたことから、以降は先の「古河公方」と対比させる形で「堀越公方」と呼ばれるようになります

 しかし、成氏派の諸将を率いて戦い続けた成氏に対し、堀越公方の政知の方は大した戦力もなければ味方からの信頼もなく、この2つの公方が並び立つ存在かと言えば甚だ疑問です。現実に、これ以降も関東の戦いは、当初の構図通り、足利成氏と上杉家がそれぞれ主導して行っています。言っては何ですが、堀越公方は完全に蚊帳の外の存在であったということです。

均衡を破った長尾景春の乱

 享徳の乱に話を戻します。

 古河、五十子にそれぞれ拠点を置いた成氏派と上杉派は、何年にもわたり一進一退の攻防を続けますが、両派ともに決め手に欠け、戦況は次第に膠着状態へと陥ります。

 そうした均衡を破ったのは、代々上杉家本家にあたる「山内上杉(やまのうちうえすぎ)家」に仕えてきた長尾家出身の長尾景春(ながお・かげはる、1443〜1514年)でした。

 山内上杉家のナンバー2に当たる「家宰(かさい)」(=家長に代わって取り仕切る人)職には代々長尾家から選ばれ、景春の祖父と父も家宰を務めていました。しかし景春の父の死後、家宰職は景春ではなく景春の叔父が継承することとなります。系譜的には不自然な継承ではなかったのですが、景春としてはこれが不満で仕方なく、あろうことか上杉家への謀反を企むこととなります。

 そして享徳の乱勃発から21年後に当たる1476年、景春は計画していた謀反を実行に移しました(長尾景春の乱)。謀反実行に当たって景春は、関東各地の諸将を味方に引き入れたばかりか、敵勢力であるはずの足利成氏の支援すらも受け、あっという間に五十子にあった上杉軍本陣を陥落させます。その後も景春は「三国志」に出てくる呂布の如く大暴れし、関東一円の上杉軍拠点を次々と陥落せしめていきます。

享徳の乱の主な対立構図
上杉派だった長岡景春は謀反を起こし、成氏派に寝返った


「百戦百勝」太田道灌の活躍

 しかし、この快進撃に待ったをかける人物が現われます。ほかならぬ当代随一の名将で、江戸城を最初に築城した太田道灌(おおた・どうかん、1432〜1486年)です。

 太田道灌は上杉家の分家に当たる「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」の家宰を務めており、長尾景春の従兄弟でもありました。長尾景春は謀反を実行に移す前、太田道灌も謀反に誘っていました。しかし道灌は景春の誘いを断り、景春の主君に当たる山内上杉家当主に対し、景春の謀反の可能性について警告を行っていました。

 その後、道灌が駿河へと赴いていた最中(道灌は、家督争いが起こっていた今川家へ介入するため駿河に赴いていました)、景春は反乱を起こします。

(なお、この時期に駿河で道灌は、幕府から家督争いの仲裁を行うよう派遣されていた、後の北条早雲 [ほうじょう・そううん] こと伊勢盛時 [いせ・もりとき] と会見したとされています。)

 景春反乱の急報を聞いた道灌は急ぎ関東へ戻ると、景春に呼応した関東の諸将を次々と撃破していきます。あわてて道灌討伐に動こうとする景春の軍勢も、道灌がことごとく先手を打ち撃破していく有様でした。この時、道灌が出陣した戦は文字通り「百戦百勝」だったと言われます。道灌の活躍により景春はあっという間に追い詰められていきます。

和睦後も戦乱は続く・・・

 太田道灌が長尾景春を追い詰めていく中、往時と比べ勢力の衰えた上杉家は、景春の後ろ盾となっていた足利成氏との和睦を検討し始めます。成氏もこうした上杉家の動きに応じて交渉を開始します。後ろ盾を失った景春は最後の拠点すらも落とされ、成氏の元へと落ち延びる羽目となりました。

 景春排除後も両派の交渉は続けられ、最終的には1483年、上杉派および足利幕府と成氏派は和睦し、28年にもわたった享徳の乱はついに終焉を迎えます(都鄙合体)。

 この和睦により、成氏は鎌倉公方の地位および関東の支配権は認められたものの、実質的な支配地域はそれまでの支配地域に限られ、鎌倉への帰還も果たすことはありませんでした。

 一方、上杉家では、今度は上杉家の本家と分家(山内上杉家と扇谷上杉家)との間で新たな抗争が始まります。上杉家同士が争った「長享の乱」については次回に(明日、公開します)。

【訂正】初出時の人名の誤記を修正しました。(2017年8月23日)

◎通して読もう!

(1)「応仁の乱」よりも前から鎌倉は戦国時代だった
戦国時代前夜の関東で起きていたこと(前編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50787

(2)かつて湘南ビーチは合戦の舞台だった!
戦国時代前夜の関東で起きていたこと(後編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50789

(3)「関東版の応仁の乱」は約30年も戦っていた
戦国時代前半の関東〜激しすぎる抗争史(前編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50855

(4)本家と分家がつぶし合い、上杉家の抗争「長享の乱」
戦国時代前半の関東〜激しすぎる抗争史(後編)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50856

筆者:花園 祐