中村俊輔/1978年6月24日生まれ、神奈川県出身。日本サッカー界に、その名を轟かせてきたレフティ。戦術眼の高さや左足から放たれるFKの精度は、39歳を迎えた今なお錆びつかない。(C)SOCCER DIGEST

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 4シーズンに渡ってプレーしたスタジアムで、かつて所属したチームの選手たちが躍動している。
 
 セルティック・パークのスタンドからピッチを眺めながら、中村俊輔は不思議な気持ちを味わっていた。
 
「ああ、ここで毎試合、プレーしていたんだな、って思ったけれど、引退したわけじゃないから、懐かしいとかじゃなくて、なんだろう……変な感じ」
 
 2014年12月、俊輔は5年ぶりにグラスゴーを訪れた。現地で「英雄の帰還」と報じられた訪問は、他でもない彼自身が望んだものだった。
 
「オフを利用してヨーロッパに行こうと思って。バルサや長友(佑都)のいるインテルに行ってもよかったんだけど、違う刺激が欲しいな、と思った時に浮かんだのがセルティック。あそこは自分にとって聖地だし、移籍する時、お礼を言えなかった人がたくさんいたからね」
 
 俊輔の申し出を、セルティックは大歓迎した。そればかりか、ハーフタイムにセレモニーを行ない、ピッチ上でサポーターに挨拶する場を設けてくれたのだ。
 
「レジェンド」として迎え入れ、背番号25のユニホームを用意して――。
 
 俊輔の訪問がクラブによって発表された時、サポーターフォーラムは喜びの声で溢れかえった。なかでも多かったのが、伝説のFKについて語るものだった。
 
 ホームで狎屬ぐ魔〞を沈めた会心の一撃――。06-07シーズンのあの夜、俊輔は130年もの歴史を誇るクラブの狎犬韻襯譽献Д鵐〞になったのだ。

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 このままでは終われない――。
 
 06-07シーズンの開幕を、俊輔は覚悟をもって迎えていた。
 
 そう強く思わせたのは、ドイツ・ワールドカップでの惨敗だ。
 
 オーストラリアに逆転負けを喫すると、ブラジルに完膚なきまでに叩きのめされた。俊輔自身も体調不良に見舞われ、ジーコの期待に応えられなかった。
 
 突きつけられたのは、力不足の三文字。だが、幸いにも新シーズン、自身を磨き直す最高の舞台が待っていた。欧州チャンピオンズ・リーグ(CL)への初参戦である。
「強豪クラブと真剣勝負をすることで足りないものが分かる。それに、セルティックでCLを戦うのは、日本代表がワールドカップを戦うのと似ているでしょ。だから、日本代表がどう戦えばいいのかが見えるんじゃないかって」
 
 振り返れば1年前、レッジーナからセルティックへの移籍を決めたのも、CL参戦のチャンスがあるからだった。
 
 前シーズンを2位で終えたセルティックは、CL予備戦への出場権を獲得していた。ところが、予期せぬことが起こる。俊輔の合流前に行なわれた予備戦に敗れ、本戦出場を逃してしまうのだ。
 
 想定外のことはまだあった。スタンドから観戦したマザーウェルとの開幕戦を思い出しながら、俊輔が苦笑する。
 
「もうびっくり。(ジョン・)ハートソンの頭を狙って蹴りまくっていたから」
 
 セルティックが繰り広げていたのは、 時代遅れの「キック&ラッシュ」だったのである。だが、まさに俊輔の獲得は、それから脱却し、ポゼッションスタイルへと転換を図るためだった。
 
 05-06シーズンの序盤、ゴードン・ストラカン監督は中盤がダイヤモンドの4-4-2を採用し、トップ下に俊輔を据えたが、ほどなくしてフラット型に変更。俊輔を右サイドハーフで起用する。
 
 これが見事にハマった。
 
「トップ下じゃないことは気にならなかったな。チームや選手の特徴を考えると、自分でも右サイドのほうがしっくりきたから。ロナウジーニョがバルサで左ウイングをやっていたでしょ。あの逆っていうイメージ。(同じく左利きで右サイドハーフを務めた)ミラン時代の(デヤン・) サビチェビッチも好きだった」