「議席3分の2確保で改憲」か「野党共闘で国民連合政府」か? 対照的な2つの政党は日本の政治をどう変えてゆくのか

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安倍晋三自民党総裁 ©文藝春秋

 7月の参議院選挙、結果は安倍政権が目指した「改憲勢力による3分の2の議席確保」という目標が達成されて幕を閉じた。この結果が、「自民圧勝」なのか、それとも「野党善戦」だったのかは、見方の分かれるところだろう。だが、32ある1人区での勝負に限ってみると、自民21勝対野党11勝という数字は、極めて興味深い。1人区に限っていえば、全選挙区での野党統一候補擁立(ようりつ)作戦が、それなりに成果を上げたといってもいいだろう。仮に民進党が単独で戦った場合、1人区では3〜4議席しか確保できなかったという推測もあるほどだ。

 さて、今回の参院選、言うまでもなく野党第1党は民進党。当然、野党側の主役は民進党だったかに見える。焦点は「自民党対民進党」という対決構図だったはずだ。だが、本当にそうだろうか。確かに議席の上では民進党が最大野党であることはいうまでもない。だが、この参院選挙で政権与党側、つまり自公両党が最も意識した“敵”は民進党ではなく、実は共産党だった。

 共産党が従来の方針を大転換し、香川県を除く全ての一人区で候補者擁立を見送るという、大胆な決断がなかったら、全32の1人区で野党共闘が成立することはなかっただろう。その結果の21対11だとすれば、“仕掛け”たのは共産党であり、野党内で主導権を握り、他の野党はこれに追随、あるいは巻き込まれる形で従った、というのが実際の構図だったのではないか。

 確かに共産党はこの選挙で、「比例850万票以上、9議席獲得」という目標には届かず、選挙区1、比例5にとどまった。1人区での候補者擁立を見送ったために、比例票が伸びなかった可能性もある。その意味では、一見、野党共闘を実現するため、敢(あ)えて共産党が犠牲的精神を発揮したととれなくもない。

 だが、共産党は今回、「それ以上のもの」を手に入れたはずだ。それは野党陣営内での「孤立」からの脱却であり、一般の有権者が抱いていた拭いがたい警戒心、アレルギーの大幅な緩和といってもいい。野党共闘を成立させたことで、共産党は少なくとも表面的には「普通の政党」に変身を遂げつつある。

 その意味で、今回の参院選挙における野党側の真の主役は共産党ではなかったか。となれば、自民対民進という対決構図はあくまでも表面的なものに過ぎず、その実態は「自共対決」だったのかもしれない。

 今回のような野党共闘の構図が、今後も続くかどうかは不透明だ。共産党が掲げる「国民連合政府」構想が実現する可能性は低い。だが、「したたか」な野党に変身しつつある共産党の挑戦は今後も間違いなく続いていく。そのターゲットは言うまでもなく自民党だ。「自共対決」はこれからが本番かもしれない。

カラフルから単色へ

 自民党と共産党、いうまでもなく政策・理念、主義主張等全ての面で水と油、ハブとマングース、右と左……、加えて政党としての組織構造に関しても、極めて対照的である。それを一言で表現すると「議員政党対組織政党」とでもいおうか。

 政党は大きく分けると、議員中心の「議員政党」と、党組織主導の「組織政党」に分けられる。自民党は明らかに前者、つまり議員政党だ。

 確かに自民党は約100万人の党員を抱えている。地方議員も全国に3351人と、他党を圧倒しているし、選挙区支部(衆院は小選挙区ごと、参院は選挙区ごと)、基礎自治体単位の地域支部や職域支部など、地方組織も整備されている。

 だが、これらの組織は基本的に国政レベルでの政権与党体制、つまり過半数以上の国会議員を生み出すためのマシーンといってもいい。

 自民党の場合、組織政党に見られるような、地方議員や非議員が党内で力を持つといったケースはほとんどない。時に、今回の東京都知事選のように、都議会自民党の「暴走」といった例外はあっても、大半の地方議員は国会議員を支える組織の歯車でもある。100万党員とはいうものの、その実態はかなりの部分、国会議員(その予備軍)が自前で作り上げた個人後援会のメンバーと重複している。外部の応援団である業界団体や宗教団体の本体部分は党本部、あるいは派閥、個々の国会議員と結びついている。こうした面からみれば、自民党は間違いなく「議員政党」であり、より具体的には「国会議員政党」というべきだろう。

 かつて、自民党議員の大半は、自分たちを「一国一城の主」だと思っていた。党の看板(公認)や資金提供など、それなりの恩恵は受けているものの、基本的には自らの力で選挙を勝ち抜き、国会議員の地位を手に入れたという意識が強かった。その「主」たちの集合体が自民党という政党だったわけだ。

 後述するように、自民党は「ある制度改革」がきっかけとなって、国会議員の地位、立ち位置が大きく変化した。ただ、基本的な組織構造、つまり国会議員政党としての性格は維持されている。

 となれば自民党という組織体の実態を解明するためには、やはり党本部、それを構成する国会議員たちにフォーカスする以外にない。

 かつてはその自民党のスタッフでもあった筆者からすると、今の自民党はイメージの中にあるそれとは全くの別ものに変身してしまったという気がしてならない。敢えてその変化を表現すれば「カラフル」から「モノカラー」へ、ということになるだろう。

「昭和の自民党」は実にカラフルだった。当時の自民党は1つの政党というよりは、むしろ「派閥」という名の政党の連合体という色彩が強かった。それがもっとも顕著だったのが、「三角大福中」と呼ばれた時代。三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘という、それぞれ個性的で強いリーダーシップをもった政治家が、自らの派閥を率いて覇権を競った時代である。


故・田中角栄 ©文藝春秋

 かつて、派閥は「諸悪の根源」といわれ、様々な批判に晒(さら)されてきた。むろん、それには一理も二理もある。派閥順送りの人事が不適材不適所を生み出したこと、派閥間の抗争がしばしば政治的混乱を生み出したこと、総理・総裁の座を巡る熾烈(しれつ)な戦いが、結果的に政治とカネの問題を引き起こしたこと……。

 だが、一方で自民党自身にとってみると、派閥には様々な効用があった。まず、派閥は教育機関としての機能を持っていた。新人たちは、派閥内で先輩議員から様々な教育を受け、いい意味でも悪い意味でも政治家として一人前になっていった。

「派閥の中の派閥」といわれた田中派の教えの1つに、「2回当選するまでしゃべるな」というのがあった。当選してきた新人に対し、先輩議員はこういったという。

「君たちのやるべきは、何より次の選挙に勝ち残ることだ。まず、そこに全力投球すること。一方で、勉強を忘れてはいけない。党の部会や調査会にはできるだけ出席しろ。ただし、そこで一言もしゃべってはいけない。先輩議員の発言、議論をひたすら聞いて勉強しろ。会議で発言するのは2回当選してからだ」

 また、当時の自民党は派閥の長にならなければ総裁レースに参加することもできなかった。従って、総理・総裁を目指す政治家はまず、派閥内での熾烈なサバイバルゲームに勝ち残り、トップの座を射止めたのち、次には他の派閥の長たちと総裁の座を目指してさらなる過酷な戦いに臨まなければならなかった。当然、その過程で政治家として、様々な試練を経験する。それがある意味で、「リーダー育成システム」になっていたともいえる。

 他方、当時の派閥はそれぞれ独特のカラーを持っていたし、理念や政策面でも明確な違いを見せていた。例えば三木派は「ハト派集団」で中曽根派は「タカ派集団」だったし、田中派が財政出動派なら、福田派は緊縮財政派。そうした個性の違いが、実は自民党という組織のバランスを保つ上で、大きく作用していたといえる。

 また、派閥という「疑似政党」の集まりだったから、時の政権が世論の批判を浴びて倒れても、他の派閥の長が新たに政権の座に就けば、それがあたかも「政権交代」のように見えた。国民の目先をかえることで、長期政権に対する「飽き」を緩和することもできたのではないか。加えて言えば、党内には常に主流派と反主流派の対立、抗争が存在し、その抗争自体が実は自民党の活力を再生産するエネルギーにもなっていた。

「奇人・変人」の不在

 自民党には今も8つの派閥がある。往時に比べて、数の上ではむしろ多いかもしれない。だが、中身をみれば、全くの別物というべきだろう。そもそも派閥は「3つの構成要件」によって成り立っていた。「カネと選挙とポスト」がそれだ。派閥は構成員に対して、この3つを提供し、構成員はその見返りとして派閥に忠誠を誓い、ボスを総裁に押し上げるために全力を挙げる、というある種のバーター関係で成り立っていた。

 だが、リクルート事件に端を発した政治改革の結果、選挙制度、政治資金制度の大改革によって、このシステムは崩壊する。衆議院の選挙制度は中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変わり、まず「選挙」が消えた。中選挙区時代は自民党候補が1選挙区から複数立候補したから、先ず派閥の後押しで党の公認を獲得し、選挙戦では派閥単位の選挙応援を仰ぐことができたが、小選挙区では公認候補は1人だけ。党中心の選挙になったから、公認権は執行部が握り、選挙戦でも派閥の出る幕はほとんどない。

 また、政治資金制度が変わり、派閥単位の資金集めをしにくくなったうえ、政党助成制度が創設されたことで、資金は党に、つまりは時の執行部に集中することになった。これで「カネ」も消えた。

 今もわずかに残っているのが「ポスト」だが、それも閣僚以外の人事に対する影響力程度である。つまり、派閥の存在意義の大半は消えてしまったことになる。従って、今現在も派閥が残っていること自体が不思議なことといってもいい。

 はっきり言って、今の派閥は「仲良しクラブ」に毛が生えた程度。かつてのような戦闘力はない。有名無実な存在となったことで、派閥ごとの独自性、言い方を変えれば多彩な色合いも消え去った。

 現行の制度がスタートした時点で、こうなることはある程度予想できた。過去の積み重ねもあってか、その進行には時間がかかったが、第2次安倍政権に至って、完成形となったかに見える。ほぼ、すべての権力が時の総理、執行部に集中することで、今、党内には明確な反主流派は存在しない。党の実権を握った総裁派閥のみがわが世の春を謳歌(おうか)し、他の派閥は息をひそめ、官邸(総理)の方針に黙々と従うだけの存在になってしまったかに見える。

 一方、個々の議員についても、似たような傾向が読み取れる。中選挙区制の時代は、例えば5人区であれば自民党から最低3人は立候補し、その多くが当選できた。1人は世襲、1人は官僚出身の落下傘だとして、残る1人は党の方針に公然と叛旗(はんき)を翻すような、あるいは特定の政策に精通する「奇人・変人」でも当選が可能だった。実はそうした「奇人・変人」が自民党という政党をカラフルな、幅広い人材を擁する、ある意味で懐(ふところ)の深い政党に仕立て上げていたのではなかったか。

 だが、今やそうした政治家の出る幕はない。一対一の戦いとなるケースが多い小選挙区制では理論上「51%」の票を獲得した候補が勝利する。当然、問題児は立候補も当選もおぼつかない。結果、優等生的候補や無難な世襲候補が大多数を占めることになる。“百面相”のような政党だった自民党は、いつの間にか、“金太郎飴”のような、どこを切っても同じ顔の政党に変わってしまった。自民党は相変わらず自民党。外見はさほど変わっていない。だが、その組織構造、内実は大きく変化している。


安保法案に反対する国会前のデモ ©文藝春秋

 今の自民党は、まさに「安倍カラー」一色に塗りつぶされている。かつての多彩で軟体動物のように柔軟で、それゆえにしたたかな自民党は消え、異論を許さない一枚岩の政党に姿を変えた。確かに、命令一下、粛々(しゅくしゅく)と動く組織には、それゆえの強みもある。例えば安保法制。世論の逆風にあっても、党内から異論がでることもなく押し切ることができたのは、一枚岩ゆえだろう。

 だが、その強さは、逆に「もろさ」と裏表でもある。政権に対する批判が高まり、危機的な状況に陥った時、もはや「顔」を変えるだけでは済まないだろう。モノカラーとなった自民党に、メタモルフォーゼの道はない。全体がもろともに沈没する危険を孕(はら)んでいるからだ。果たして自民党の組織体としての変質は、長期的に見て吉と出るのか、それとも……。

組織政党ゆえの大転換

 一般に「組織政党」という言葉で誰もが連想するのは、公明党と共産党だろう。だが、厳密に言うと公明党は組織政党ではない。なぜなら公明党を支えている組織は実態的に創価学会であり、公明党自身は自前の組織を抱えているとはいえないからだ。その意味で、日本における唯一の組織政党は日本共産党ということになる。

 組織政党とはなにか。一般には、政党が有権者に直接訴えかけ、支持を獲得し、広報活動(機関紙誌など)を通じて政治教育を行い、党員を拡大し、日常的に政治活動を展開するスタイルがそれだ。組織運営はあくまで党中心。地方議員や地方組織、一般党員を多数抱え、党幹部に非議員が少なくないことも特徴の一つだ。

 共産党の党員は約30万人(2015年現在)、基本的には職場、地域、学校につくられる支部を基礎とし、支部→地区→都道府県→中央という形で組織されている。共産党の強みは、なんといっても全国に張り巡らされた約2万の支部組織にある。底辺部分を支えるこの支部組織が、それぞれの地域や職場に密着し、住民や労働者の要望にきめ細かく対応(共産党ではこれを「生活相談活動」と呼ぶ)することで、支持を拡大、維持している。

 その支部活動の中心にいるのが、地方議員たち。共産党の地方議員数は自民党(3351人)、公明党(2921人)には及ばないものの、2817人(2015年総務省調査)と国政レベルに比べて強力だ。地域等での彼らの評判は押し並べていい。住民の行政等に対する要望に、丁寧に、しかも迅速に対応するからだ。「相談事は共産党」が定評になっているともいわれている。

 また、財政面でも他党に比べると、極めて強固。他の政党の多くが、党収入の大半を政党交付金でまかなっているのに対し、共産党は自前の収入で党運営ができている。ちなみに、政党交付金の受け取りを拒否している政党は共産党のみだ。

 2015年の党収入は約238億円。党財政を支える柱は「しんぶん赤旗」の購読料、党員が納める党費、個人からの寄付の三本柱から成り立っている。このうち最大の柱は「赤旗」で、収入の約8割(190億円)を占めている。「赤旗」がこれほどの収益を挙げている理由は、配達や集金がほぼ党員のボランティアで支えられているからだが。なお、党費(党員は実収入の1%を納める規定)は約6億5千万円、個人からの寄付は約7億円だ。

 また、共産党には党組織以外にも民商(全国商工団体連合会)や民医連(全日本民主医療機関連合会)など、強力な関連団体がある。ちなみに民商の会員数は約26万人、民医連は141の病院、505の診療所を擁する日本最大規模の医療関係団体だ。これらの関連団体が様々な形で共産党をバックアップしているのである。


志位和夫共産党委員長 ©文藝春秋

 いうまでもないが、組織政党である共産党は「組織の論理」がすべてに優先する。組織内の序列も外部的な肩書とは関係ない。議員、非議員の違いもない。

「国会議員、地方議員の上下関係はありません。みんなが役割分担をしているだけ」(山下芳生副委員長)というわけだ。そのため、時に国会議員本人よりも、その秘書のほうが党内の序列では上、といった現象も起きるという。

 とはいえ、実態的には党大会にかわる最高意思決定機関である中央委員会(中央委員、準中央委員合わせて約200名)、そのトップである委員長に権力が集中していることも事実。これがいわゆる民主集中制だ。言い方を変えれば中央委員会の決定は絶対であり、党内でこれに異を唱えることなどあり得ない。

 今回の参議院選挙で、共産党は1人区での候補者擁立という従来からの方針を転換し、野党共闘路線に切り替えた。その方針を決定したのは志位和夫委員長だが、この大転換が、どのような状況下で決まったのかをみれば、それは明らかだろう。前出の山下副委員長はこう述べている。

「方針を決めたのは昨年の9月19日、安保法制が成立した当日です。志位委員長の提案で方針を決めました。提案があった時に、みんなが驚いたのは事実ですが、特に異論はなかった。安保法制廃止にはこの方法しかないと思ったからです」

 これほどの大転換が、異論なく決まること自体が、この政党の性格のある一面を物語っているといえるかもしれない。

 野党内での存在感を増す一方、ソフト路線の徹底で一般の国民が抱いているアレルギー反応の緩和にも成功しつつある共産党。だが、その一方で、あるいはそれゆえに直面しつつある課題も見え始めている。共産党の党員数は現在約30万人だが、これはピーク時の約49万人から見ると、約4割近い減少だ。また、このところ若い層の入党が増えているとはいえ、全体として党員の高齢化が進んでいることも事実。これは財政面にも直結する。組織政党だからこそ、党員数の減少というのは極めて重大な問題だともいえる。

 組織が弱体化する中で、それを補うためにはどうしても組織外の支持拡大が必要になってくる。それが、実はソフト路線であり、今回の野党共闘路線の背景なのではないか。だが、それは一方で組織政党としてのアイデンティティ、政治理念、イデオロギーを薄めていくことにもつながりかねない。

 共産党は共産党であり続けるのか、それとも本当の意味で「普通の政党」に向かっていくのか。自民党と共産党、規模でいえば自民党が象なら、共産党は同じアフリカの草原に住む、俊敏な山猫サーバルキャットくらいの違いがある。だが、今後も自民党にとって、共産党は油断がならない存在であり、共産党にとって、自民党はどんな奇手奇策を講じてでも疲弊させ、倒すべき対象であり続けるだろう。

 その両党が、生き残るために党の体質を変化させていく中で、ともにそれぞれが持っていたはずの本質的な部分、あるいはアイデンティティまでも変質させかねないというジレンマに陥っているように見えるのは、果たして偶然の一致だろうか。

(伊藤 惇夫)