先日のスルガ銀行チャンピオンシップでの一枚。スタンドではブラジル人サポーターと日本人サポーターが一緒になってシャペコエンセを応援する姿があった。写真:宇都宮徹壱(Saitama. 2017)

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 懐かしい顔と再会した。元ブラジル代表であり、元日本代表監督であり、常勝軍団・鹿島の礎を作ったジーコ氏である。ジーコ氏は昨年、日本サッカー殿堂に掲額されたが式典には出席できなかった。そのため、今月15日に埼玉スタジアムで開催されたスルガ銀行チャンピオンシップ(スルガ杯)の試合前に、1年遅れでセレモニーが行なわれた。イラク代表監督として埼スタのピッチに立ってから実に5年。久々に間近で見るジーコ氏は64歳という年齢に相応しい相貌となっていて、時のうつろいというものを痛感した。
 
 思えば、この人がトヨタカップで初来日したのが36年前(1981年)。住友金属への電撃的移籍が26年前(1991年)、そして日本代表監督に就任したのが15年前(2002年)である。その間、ジーコ氏がプレーヤーとして、そして指導者として日本サッカー界に与えた影響については、今さら多くを語る必用はないだろう。ここで私が着目したいのが、ジーコ氏が日本サッカー界に深くコミットするようになって以降、日本とブラジルという地球の反対側に位置する両国の関係性が密接になっていったという事実である。
 
 日本が初めてブラジルに向けて移民を送り出したのは1908年。つまり一世紀以上の交流があったわけだが、あまりにも両国間が遠すぎたため、人の往来は極めて限られていた。やがて時は流れ、JSL(日本サッカーリーグ)では日系をはじめとするブラジル人選手がプレーするようになったが、肉が主食ではない日本の食事に苦労したという話はあまりにも有名だ。そもそも当時のわが国において「外国人」といえばアメリカ人のことであり、ブラジルに憧れる日本人はサッカーファンとサンバやボサノバの愛好家に限られていた。
 
 潮目が変わったのは、やはり93年のJリーグ開幕だったと思う。当時のJリーグは、さまざまな出自を持つ外国籍選手がプレーしていたが、最大主流派はなんと言ってもブラジル人。その傾向は四半世紀が過ぎた現在も変わらない。ジーコ氏がその象徴的な存在だったことは間違いないが、ブラジルから帰化して日本代表になった選手、あるいはクラブ数が拡大して地方のJクラブでも活躍するブラジル人選手が増えたことで、日本とブラジルの親密度はかつてないくらい深まっていったように感じる。
 
 そういえば、スルガ杯で浦和と対戦したシャペコエンセのゴール裏では、ブラジル人に混じってC大阪や川崎といったJクラブのサポーターも一緒になって声援を送っていた。周知のとおりシャペコエンセは、昨年11月のチャーター機墜落事故で多くの選手やスタッフが犠牲になり、その中にはかつてJクラブでプレーした選手も含まれていた。「ウチでもプレーしてくれたから」という理由で、少なからずJクラブのサポーターがシャペコエンセに寄り添っていたのである。それはまさに、地球を一周するフットボールの紐帯というものを、強く実感した瞬間であった。
 
宇都宮徹壱/うつのみや・てついち 1966年、東京都生まれ。97年より国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。近著に『フットボール百景』(東邦出版)。自称、マスコット評論家。公式ウェブマガジン『宇都宮徹壱ウェブマガジン』。http://www.targma.jp/tetsumaga/