吉元由美の『ひと・もの・こと』

作詞家でもあり、エッセイストでもある吉元由美さん。先生の日常に関わる『ひと・もの・こと』を徒然なるままに連載。

たまたま出会った人のちょっとした言動から親友のエピソード、取材などの途中で出会った気になる物から愛用品、そして日常話から気になる時事ニュースなど…様々な『ひと・もの・こと』に関するトピックを吉元流でお届けします。

香りの記憶から…人生という物語を

忘れられない香りの記憶があります。30年ほど前、パリ左岸のルテシアホテルに逃げ込むようにチェックインしたことがありました。数日滞在していた小さなホテルの部屋を誰かが何度もノックするという…それだけのことなのですが、ひとり旅…それもグレイの雲が低くたちこめる冬のパリをひとりで旅していた私は怖くなって、逃げるようにホテルを替えたのでした。

部屋に入った時、ふっといい香りがしました。甘くない柑橘系の香り。柑橘系のつんとした香りを、ほの甘さが包み込んでいるような。それは、洗面所に置いてあった小さな石鹸の香りでした。アニック・グタールのオーダドリアン。決して優しいとはいえない冬のパリに疲れきっていた私の心と響き合いました。それ以来、アニック・グタールのこの香りは、あのパリを歩き回っていたころの自分の記憶と共にあるのです。

香りの記憶は、自分の中のどこか遠いところにあるような感じがします。一方視覚的な記憶は、記憶の中にスライドのように残っていて、いつでも『取り出し』可能です。

聴覚、触覚な記憶も言葉にしやすいでしょう。音のイメージは実際に再現でき、誰もが聴いたことのある音から想像しやすいでしょう。日本語には擬音語、擬態語という感覚的なことを示す言葉がたくさんあるので、触覚的なイメージも思い起こしやすいのです。味覚を表現する言葉もたくさんありますし、実際に食べたことのあるものから想像しやすいと思います。

五感の中でも、嗅覚はまた独特の世界があります。嗅覚に優れた人は、単に匂い、香りを嗅ぎ分けられるというだけでなく、その向こうにある何ものかにつながっていく回路を持っているような感じがするのです。

たとえばアロマオイルも香水もお香も、さまざまな精油や材料の調合です。そのようなテクニカルなことにつながる回路や、その香りが持つ世界観へつながる回路もあるでしょう。そして、ふっとした香りが、遠い記憶を呼び覚ますこともあります。香りの記憶は、視覚や聴覚の記憶よりもなぜかリアルであったりするのです。

香りを言葉にするのはむずかしいものです。たとえば、シャネルNo.5の香りを言葉でどう表現するか、香りの成分について知識がなければイメージだけで表現することになります。でもそこに、マリリン・モンローがシャネルNo.5をまとって寝ていた…という物語を知ると、そこに女性そのもののイメージが広がります。

香りには物語がある。人生のどこかで出合った香りの記憶をたどっていくと、遠い日の自分の物語につながるかもしれません。そんな物語を、ずいぶんと大人になって楽しめるようになりました。

前を向いて進むことがよしとされている忙しい日々の中で、ふっとそんな記憶をたどってみる。それもまた、人生という物語にささやかな豊かさを加えるのです。

[文・構成/吉元由美]

吉元由美

作詞家、作家。作詞家生活30年で1000曲の詞を書く。これまでに杏里、田原俊彦、松田聖子、中山美穂、山本達彦、石丸幹二、加山雄三など多くのアーティストの作品を手掛ける。平原綾香の『Jupiter』はミリオンヒットとなる。現在は「魂が喜ぶように生きよう」をテーマに、「吉元由美のLIFE ARTIST ACADEMY」プロジェクトを発信。
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