本田技研工業(ホンダ)が創立されたのは1948年。当時、創業者の本田宗一郎は41歳だった。

 この手記が月刊誌「文藝春秋」に寄稿されたのは、それから7年後のこと。まだ世界的にはまったくの無名企業だったが、オートバイにすべて情熱を注いでいた男の立志伝からは、その勢いと自信の程をうかがうことができる。

(前編[http://bunshun.jp/articles/-/3664]から続く)

 

出典:『文藝春秋』1955年10月号「バタバタ暮しのアロハ社長」

(なお、転載にあたって、現代読者に読みやすくするため、旧かな遣い、漢字表記を一部改めた)

競走自動車の選手

 しかしどん欲な私の生活力は、我ながらすさまじいものがあった。その気になりさえすれば、瓦の上に種まかれても芽を出す、そんな意欲だけは、何時でも湧いてくる。

 研究はうまくゆかず、といって50人もの工員に給料を支払わぬ訳にはゆかず、甲斐性のない話だが、女房のものまで質屋に入れた有様であった。

 爐の側に12時1時までしがみつき、寒い冬の夜など、酒を一杯ひっかけて、むしろの上にゴロ寝である。髪は伸び放題で、耳までかぶさってくるが、理髪店へゆく暇もなかった。聴講の最中でも、何か教授がヒントになるような事を講義すると、飛んで家へ帰り直ぐ実験してみたかった。三度三度の食事は妻が運んで来たが、

「おい、鋏もってきて髪を切ってくれ。うるさくて叶わんから……」

 と命令する。そして実験の手を休めずにチョキンチョキンとやって貰ったものだ。

 桃栗三年という。私の研究製作もそうだった。途中で投げるという簡単な具合にはゆかず女房子供をはじめ、多くの人々の生活がかかっており、止めれば飢え死ぬより他はなかった。そして数年伸び縮みの果てにやっと前途に明るい曙光を見たのである。ところがその頃私は、いつの間にか、浜松高工を退学になっていた。もっともな話だ。月謝は納めぬし、試験は受けないのだから、学校もおいておけなかろうが、退学にもめげず私は更に1年以上も通学し、講義をきいていた計算になる。


バイクにまたがる本田氏 ©共同通信社

 こうして私は自ら工夫し製作したエンジンを使った競走用自動車に乗り、まずは自分の成果を実地にと、多摩川べりで開催されていたレースに初めて出場してみたのだった。勿論自信あっての事だから、意気揚々たるものがある。

 そして私は、それからはレースがある度、東奔西走、必ず出場し、そして勝ち、負けた。時には優勝の栄に輝いたこともあった。そして、そうだ、あれは何回目位に出場した時だろう。その時のことを今もありありと想い出すことが出来るのだが……。

 広々とコンクリートを敷きつめた競技場は、青々とした草地を片側に、片側は觀覧席である。一直線に幅広いレース・ラインがひかれ、そのくっきりとした白線が緑に溶けこむあたり、赤い旗が左右にゆっくりと振られていた。

 エンジンの調子をみるのに余念のない選手達が、7人、8人……。お互いが出すけたたましい音響も聴こえぬらしく、整備に打ちこんでいた。私はといえば、すっかり上気し、そしてガソリンの馴れた匂いにも、幼かった時の様に、胸は躍っている。弟に助手を務めて貰った。

 ――いいか俺のエンジンよ。頑張ってくれよ。勝とうぜ。やろうぜ。頼んだよ。

 その思いをこめて私は苦心の製作車の胴をぽんぽんと叩く。首をしめるジャケツが、何時までも頭から血を下ろしてくれない様だった。いつものことながら、膝がガクガクしている。

 暫時あった。出発合図が、ピーと鳴った……急に、静かになった競技場。低く車中にかがんだ私の眼に、前の硝子窓を通して、遠いゴールの標識が、ちら、ちらと隠顕して、誘っている風に見える。

 ……号砲一発、スタート!! 私はスロットルを一杯に開いた。車はすざまじい音響と、猛烈な煙を残し、素っ飛び出る。

 エンジンの響が私の内部で、するようだった。震動がびりびりとこたえるのに耐え、ハンドルを操作する。平べったいレース距離の端まで、形容すれば、車は走る雲の中にあった。100、……110……そして120キロ。スピードはぐんぐん昇る。

 だが、次の瞬間だった。私の車は二、三間もんどりうって、跳ね上った。アッと思う暇もない。瞬間の記憶に、一回転する世界の風景を見たと思った。130キロ以上の快速にあった時である。

 車から跳ね飛ばされた私は、地面に突きささるように落ち、そしてもう一度、叩きつけられた。それきりで私は、気を失ってしまった。

 意識が戻った時、顔面は湯をかぶったみたいに熱かった。ああ、生きていたのか。ほっとすると一緒に、虚脱した様に何も考えられなかった。

「弟は?」

「無事ですよ。……よくまあ……本当にお二人とも助かりましてヨ」

 微笑んで教える看護婦さんが、ありきたりの言い方だが、天使に見えた。白衣は病んだ人の心を慰めるものだ。

 私の負傷は、左顏面をぶっ潰し、右腕が肩から抜け、手首を折っていた。弟は肋骨を四本折った重傷であった。共に無事だったというのは幸運だが、人間は容易には死なぬものだと、妙なことを私はえらく感心した。そして、

「そんなことに感心する者があるか。呑気も程がある」

 とあきれられ、叱られもした。

 今考えても実に無茶をしたものだ、と私自身も懐しく、また滑稽にも考えられる、その頃の乱暴に生きた日々である。

惚れて通えば……

 レース経験を経、また学問的な裏づけをつけながら、私は曲りなりにも、ピストン・リングの精巧度の高いものを作ることが出来るようになった。

 そして戦災、終戦を迎えるという、日本人すべての人々と同じ経験を経た。

 終戦後、私は綺麗に焼かれたのを機に、商人から足を洗い、内燃機関の技術研究所を建てようと考えていた。しかし、理想はともかく、混乱期に伴う貧困な社会の中で、霞を食べて生きているわけにもゆかない。

 そこで考えついたのが、自転車にエンジンをつけて走る、例の、大抵の人々が一度は御覧になったであろう、バタバタである。軍部で使用していた発電機のエンジンが、沢山放ってあったのを見て、多量に買い占め、自転車につけて売り出して見たのである。

 闇屋の乗るものだとか、売用には適さぬとか散々に悪口を叩かれたが、案外に実績はよく、むしろ鰻上りによくなっていった。

「こんなガソリンの無い時代に、誰がそんなものに乗る」との批判には、常に、

「ガソリンの無い時代だからこそ、売れるのだ、統制されたガソリンの量では、到底自動車が走り得べくもない。しかし仕事の能率をあげることは、復興のためにも必須だ。だから少ないガソリンで距離を走れる、簡単なオートバイ(?)が要求されるのだ」

 と、常々から答えていた。

 目先が利く、商売上手だ、と批判も多いが、これも私に言わせれば、一つの創意なのである。国情にマッチし、しかも、一歩進んだものを考え、創造することは、発明だといってよいだろう。

 何の仕事にも言える事だろうが、これは簡単に出来るわいと考える人は素人であり、経験を積めば積む程、――本職になればなる程、難しくなってくる。そして真のエキスパート(熟練者)は、不可能の壁を打ち破るところに、喜びをもつものである。

 そしてその苦労は、真の意味に於ける苦労ではなかろう。それに打ちこんでいる時は、形容でなしに、親兄弟を忘れ、金銭を忘れ、名誉を、あらゆる世俗の野心を忘れるものだ。そして壁に打ち当った時、真の勇気が湧いてくる。


1958年に発売された初代スーパーカブ 写真提供:Honda

 昭和27年、私は150に余る発明工夫の特許獲得に対して、藍綬褒章を授与された。生きるために自分の好きなことに終始し、これといった貢献も未だしていないのに、と厚かましい私も些か面映ゆかったが、有難く頂戴することにした。

 授賞式の席上、高松宮殿下が、授賞者中一番年若なのに目をとめられてか、

「発明工夫というのは、隨分と苦しいんでしょうね。私には分らぬが……」

 と、懇ろなる言葉をかけられたが、私は分り易くと思い、こう説明申し上げた。

「全く恋愛と同じです。……苦しいといえば苦しく、楽しいと申せばまたこれ程楽しいものはなく……惚れて通えば千里も一里、人から見れば、よくもまあ夜も寝ずに苦労して、と思うでしょうが、本人にしてみれば、こんな楽しいことはないのです」

 殿下は私のおっちょこちょいな答弁に、妙な顏をなされていた。そこで私はこの話を妻にした。彼女はさも当然だという顔つきで、「殿下に恋の苦労なんて、そりゃ……」と、ここまで言うと、急にキッとなり、

「貴方は、またどこかでそんな苦労を……」

 私は藪をつついて蛇を出した恰好で、弁明これ務めねばならなかった。

サーカスの団長さん

 昨年、私は英国のマン島で、毎年行われる、オートバイの世界選手権レースを見学してきた。T・Tレース(ツーリスト・トロフィ・レース)と称し、オートバイ界世界最高のものが一堂に会する、伝統的にも、技術的にも有名なものである。

 一周は60キロ、それを7周する。計420キロ、これはほぼ東京大阪間に匹敵する。日本のその辺で見られる競走とは、10桁ぐらい違うのである。


マン島の風景 ©iStock.com

 出場するオートバイの性能も、これまた日本産は問題にならぬ。13000回転(日本では現在普通7500回転)これは1秒間にエンジンが100回は爆発しないと出ない数である。(日本では普通70回位)容積で言うと1リッター当り140馬力(日本では60馬力)以上の力を有しているのである。

 どうしてこうしたエンジンが出来るのであろう。全くの驚異である。そして私がわざわざ視察に行ったのも、いつかは必ずそのレースに日本からも参加し、そして優勝しようと考えたからであるが、当時は、尚前途道遠しの感を抱かざるを得なかった。

 何故なら日本では、オートバイの高速度の研究が全然なされていない。先ずその研究から徹底的に、一歩一歩しあげてゆかねばならなかったからである。

 レースは220キロ以上の速力の勝負である。私が転倒した速度のほぼ2倍だ。文字通り一度事故があれば、死神の口にそのまま飛びこむより他はない。

 私は外国へ行き、高慢の鼻を折られ、同時に新しいかつて見なかった勇気の湧いてくるのを覚えた。それは闘志といえた。必ずスピードに勝ってみせる。そして日本のエンジン技術の優秀性を、世界に、さあどうです、とぽんと示してやろう。

 欧州第一という伊太利のオートバイ工場を見学した時のことだった。そこの専務級の人が、私が日本から見学に来た事を言うと、さも感嘆に堪えぬ調子で、

「ほう、日本にもエンジンが出来るのですかね? 驚きましたね」と言う。驚いたのは私だ。

 戦後の日本再建は輸出からだ。それは日本の製品を売るのみに止まらず、日本の技術の海外進出まで伸長さす必要がある。そのためにも、敗れたとはいえ日本は健全であることを示すことだ。オートバイに関していえば、T・Tレースに出場し、優秀な成績を収めること、それが捷径だろう。

 赤青の縞の帽子に、赤いアロハ姿で、私は先日も、スピード違反で、巡査に捕まってしまった。免許証に印されたスピード違反の記録の数に、その若い巡査もあきれた顏だった。

「今度捕まると免許証を取上げですよ。何故こんなに違反を?」

「そりゃ急ぐ用があるからですよ」

「一体職業は何なのですか。こんなに急ぐ用があるなんて」

「何に見えますかね……」

「その恰好じゃ、サーカスの団長ですかな」

 これにはギャフンと参った。言葉もない。さらばと名刺を出したが、巡査はさらさら信用しない。

「その恰好で社長なんて……それに若すぎますよ」

 最後の言葉だけは気に入った。背広を着たことのない私は、成程未だ若い。確かに若いのだ。しからばスピードレースに出られる資格も、まだ充分あるに違いない。

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マン島レース初参戦マシンと6位入賞の谷口尚巳選手 写真提供:Honda

 この後、ホンダは1959年にマン島T・Tレースに初参戦。さらには1961年に初優勝を飾った。

 この手記でも1954年のマン島見学の衝撃が語られているが、「マン島T・Tレース出場宣言」をしていた本田宗一郎は、まさに有言実行を果たした。

 ちょうどホンダが世界的メーカーとして飛躍した時期でもあった。1957年には東証一部上場、1959年には米国現地法人を設立、1963年には四輪車も発売するなど、グローバルメーカーとしての階段を駆け上っていった。

(本田 宗一郎)