世の中には長い歴史を誇る祭りは数多いもの。でも、遠い昔から一度も途切れることなく毎年続けられてきた祭りとなると、そうそう見当たらなくなります。たとえば、京都を代表する祇園祭や葵祭もたびたび途絶・中断されていますし、日本三大祭の天神祭も、また神田祭も明治時代の将門台風や近年の東日本大震災などで中止されています。しかし、千葉氏の氏神社として知られる千葉神社で開催される妙見大祭は、平安時代の大治2(1127)年から営々と途切れることなく続けられてきた稀有な古祭。毎年8月16日より、北斗七星の七にかけて七日間にわたり祭りが行われます。


約900年一度も途切れず受け継がれた!妙見大祭縁起

厄年祓・星厄消除・八方除・方位除の神社として、またプロの占い師、風水師からの信仰の厚い千葉神社は、平安時代、上総・下総・常陸に勢力を拡大していた豪族・千葉氏七代・千葉常重が、関東の海運・陸路の要衝であった現在の千葉市中心街付近に本拠を移し、亥鼻山に亥鼻城を築城した大治元(1126)年の翌年、創建されました。
以来、千葉氏の守護本尊である妙見神の分霊を神輿に乗せて亥鼻城の麓に向かう「妙見大祭」は始まりました。当初は北斗山金剛授寺といい、妙見菩薩を祀るお寺でしたが、明治の神仏分離令により妙見宮千葉神社に。
8月16日にお神輿が神社を出て、亥鼻山の麓の御仮屋に一週間逗留し、最終日である8月22日(妙見様のご縁日)に再び神社へと戻ってきます。祭りが七日間に及ぶのは、祭神である妙見様(妙見菩薩/北辰妙見尊星王)の姿とも、その乗りものとも言われる北斗七星に因んで、その七つの星の一つ一つに願いを掛ける願掛けのお祭りだからです。22日の縁日から7日さかのぼり、初日が16日に設定されているわけです。
初日の宮出しに際しては、献幣使(けんぺいし)が招かれ、巫女舞奉納の後に、氏子たちにより担がれた大神輿が千葉の町に繰り出します。千葉神社の神輿の担ぎ方は独特で、神殿・拝殿境内では肩に担ぐことが許されず、腕を高く掲げて空に突き出し、その後ひざ下まで低く下ろします。町内渡御の間も、そろいの千葉氏の紋章を染め抜いたはっぴを着た担ぎ手たちは、要所でその動作を続けなければなりません。この独特の神輿揉みは、三度下へおろし、ヤレヤレヤーの掛け声で頭上高く差し上げるという激しいもの。 神輿には猿田彦と御旗鉾、大太鼓、お囃子が先導します。この大太鼓の叩き方も千葉神社独特の「二段打ち」という特殊な叩き方で、左右それぞれに2名ずつの撥手がつき、左右順に叩いていきます。二人が同時に叩くので微妙な時間差が生じ、その音が「だらん、だらん」と響くために「だらだら祭り」の名の由来となりました。


ラスボス?宇宙の創世神?妙見菩薩とは?

ところで、妙見菩薩や北辰妙見尊星王は、地蔵菩薩や観音菩薩、あるいは阿弥陀様、お不動様、薬師様などと比べて、一般的にはあまり聞きなれない名前ですよね。神仏混淆であった明治以前には、北辰権現または北辰明神といわれ(権現は神が仏身として顕現すること、明神は仏が神の姿を取ること)、明治以降は天之御中主大神(あめのみなかぬし)として、日本神話であらゆる神の筆頭に登場する宇宙始原の神とされました。なぜならこの神は北極星の化身であり、天の中心にあって宇宙の星々を統べ、宇宙の秩序をつかさどる中心にある、と考えられたからです。北辰の「辰」は、龍神の意味と同時に、時間や、宇宙の秩序そのものをあらわす言葉です。
北極星は長く遊牧民や海洋民に信仰されてきましたが、やがて中国で道教と習合し、陰陽道や易学・九星気学・風水学ではもっとも高位にある至高の支配者として尊崇されるようになりました。このため、日本でも主祭神の天之御中主大神と習合されるようになったわけです。また、陰陽道の鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん)」や、海洋神である恵比寿神とも習合されています。
その絶大な霊力で、人が担う星(宿命)をもその手に握り人間界を支配している存在であると信じられるようになりました。

ではどうしてこの妙見菩薩=北辰妙見尊星王は、千葉氏の守護神とされ、厚く信仰を受けてきたのでしょうか。それは、千葉氏の祖である桓武天皇までさかのぼります。
桓武天皇御世(781〜806年)、大陸からもたらされて浸透しつつあった妙見菩薩信仰を、桓武天皇は宮中行事としてはじめて取り入れました。「御燈(ごとう)」と呼ばれるこの行事では、3月と9月に灯火を北辰妙見に捧げました。しかし、これが庶民に「北辰祭」として広まると、一夜限りの男女が交わる乱交祭りへと発展してしまいます。いわゆる「歌垣(かがい)」と呼ばれる平安時代以来の乱交の風習は、北辰祭を端緒としています。
というのも、北辰妙見は北極星の神であると同時に宇宙創成をなした男女和合・生殖をつかさどるともされたからでした。これは妙見の乗り物である玄武神獣が亀と蛇という生殖と関係する生き物の合体した姿であることにも表れています。しかしあまりの流行振りに風紀の乱れを懸念した朝廷は、北辰祭を延暦15(796)年に禁止してしまいます。妙見信仰も一旦は廃れました。
これがふたたび息を吹き返したのは、桓武天皇の子孫であり、千葉氏第一代の祖・平良文によるとされます。桓武天皇の庶子・葛原親王の孫である高望王(たかもちおう)が平姓を賜って上総介として昌泰元年(898)東国に下り、息子等とともに上総、下総、常陸一帯を治めるようになります。延長元年(923)、高望とともに関東に下らなかった五男、良文が下総に下りました。「千葉伝考記」によれば、良文が後の千葉氏の第一代となります。やがて兄である常陸大掾国香、上総の良正らと、良文・甥の将門の不和が勃発、国香と結んだ源家をふくめての一族同士との戦いに突入していきます。後にこれは朝廷を震え上がらせた平将門の乱(天慶の乱)へと発展していくのですが、それ以前の戦いで、窮地に陥った良文を助けたのが、童子に姿を変えた北斗七星妙見菩薩であった、と伝えられます。
以来良文は妙見菩薩を信仰し、もともとこの地にあった八幡神とも習合して、 武士団・千葉一族の守護神となっていきました。
ところで妙見信仰は伝来当初は、畿内の南河内など辺りでの信仰されていたようで、おそらくその当時物部氏の氏神である事代主(ことしろぬし)とも習合しています。なぜなら、事代主とは、最高神の言葉を下ろす(代弁する)人、という意味であり、つまり天之御中主大神の寄り代であるからです。そして、事代主の別名は一言主。人が一言言葉を発すれば、その願いを聞き届ける神、とされ、そして妙見大祭の別名は、「一言妙見大祭」。物部氏の氏神であり、日本の本当の武神の頭領である布都主(ふつぬし)を祭る香取神社の神域に、千葉神社が鎮座したしたことともかかわりがあるでしょう。


「七夕空襲」をも乗り越えた妙見祭。いよいよクライマックス宮入りです

来たる8月22日は、妙見大祭の最終日。お仮屋で過ごしていた妙見様の神霊が、再び神輿で町内を練り歩いたあと、千葉神社に還座します。妙見大祭のクライマックスは、神輿が神社に入るとき、といわれます。無数の月星提灯・九曜提灯に照らされて、鮮やかな朱塗りの楼門に入るきらびやかな神輿は、まさに星々にとりまかれて輝く支配者・北極星の化身とも思われる美しさ。
境内に入ってからは一切肩で担がず、膝下で揉み、頭上高く差し上げるの繰り返しとなるため、担ぎ手の体力は限界ぎりぎり。その気迫・迫力が世に知られていないのは、一般の撮影が一切禁止されているからですが、千葉神社以前からその地に鎮座する香取のフツヌシへの配慮を欠かさず、境内では神輿の鳳凰をはずすしきたりといい、そこには見せかけではない神への尊崇と、伝統への敬意、それを受け継ぐ静かで激しい誇りを見ることが出来るのではないでしょうか。
先の大戦で千葉市街が7月7日に大空襲を受けた「七夕空襲」で千葉神社の一切の伽藍が灰燼に帰した年ですら、妙見大祭を実行したという逸話にもあらわれています。
891年途切れることなく受け継がれた伝統の祭りは、見せ掛けの派手さではない本物の伝統の迫力を目の当たりに出来るはずです。
妙見大祭の一週間は「何か一言願をかければ、その願いは必ず達成される」とされ、それが「一言妙見大祭(ひとことみょうけんたいさい)」の由来。特に最終日宮入の日は妙見様の霊力がもっとも高まっているのだとか。心からの願掛けに、お出かけしてみてはいかがでしょうか。
参考文献
千葉県史跡と伝説 (荒川法勝 暁印書館)
妙見本宮千葉神社