中3の秋、G大阪ジュニアユース時代。ボランチながら背番号10を付け、チームを牽引していた。(C)SOCCER DIGEST

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[週刊サッカーダイジェスト・2001年8月8日号にて掲載。以下、加筆・修正]
 
 いよいよガンバ大阪に別れを告げ、アーセナルへと旅立つ稲本潤一。エリート街道を突き進み、自身も「挫折を感じたことはない」と語るが、サッカーを始めてJリーグ最年少デビューを飾るまで、普通の少年と同じように、いくつかの岐路で葛藤を繰り返してきた。これは恩師の言葉を元に展開される“名手誕生秘話”にして、彼を支えたすべての人びとに贈る物語である(文中敬称略)。

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 川口道夫は悩んでいた。
 
 これだけ才能のある少年にどのような指標を示せばいいのか。地元の堺市には、彼が存分に力を発揮できる中学校サッカー部がない。我が子のことのように、思いを巡らせていた。
 
 すでに関西選抜に入るなど地域では、サッカー現場ではちょっとした有名人になっていた稲本潤一。当時12歳。いまでこそ強靭なフィジカルを誇るが、その頃は他の少年とさほど変わらぬ背丈で、少し太り気味だったという。ポジションはストライカー。青英学園サッカークラブの総監督である川口が、潤一の両親から入部を申し込まれてから、はや6年の歳月が流れていた。
 
 もちろん潤一にしてみても、自分がどれくらいのレベルにあるかなど、完全に把握はしていなかった。とりあえず、堺では誰にも負けない自信はあったし、全国にはもっと巧い選手がいることも承知している。そんな小6の秋だった。潤一は小学生で構成されるU-12日本代表候補の選考から漏れてしまう。ミニゲーム主体のテストは、ダイナミックなプレーが身上の彼にはやや窮屈だったのかもしれない。
 
 本人も意外だったのは、その落選にひどく落ち込んでしまったことだ。やがてもっと巧くなりたいと、強い自我が芽生えていた。その気持ちを誰よりも分かっていた川口は、だからこそ、親身になって潤一の未来に気を揉んでいたのだ。
 タイミングは、抜群だった。
 
 1992年冬。巷ではJリーグ創生の機運が高まり、異常なまでの盛り上がりは関西地域をも席巻していた。初年度から名を連ねていたガンバ大阪は、Jリーグ正会員の条件を満たすべく、下部組織の体系づくりに奔走していた。ジュニアユースとユース、その統括を任されたのが上野山信行である。
 
 当時はまだセレクションなどの選考システムが確立されておらず、各地でこんな逸材がいるという情報を聞きつけては、上野山が足を運んで品定めするの繰り返し。ちなみに同時期、ユースチームの第1期生には宮本恒靖の名前もあった。上野山は自らが持つすべてのパイプを駆使し、低迷していた関西ユースサッカーの雄たらんと、チーム構築に情熱を注いでいたのだ。
 
 それを知人から聞いた川口は迷わず、上野山と潤一を引き合わせる手はずを整えた。
 
 前身である釜本邦茂サッカースクールでも育成にあたり、自分なりの目利きには自信があった上野山。潤一への第一印象は、こんな感じだった。
 
「なんちゅうしっかりした技術を持っている子なんやろ。これは化けるぞ」
 
 入団にまったく障壁がなかったわけではない。潤一の母である幸子は、練習グランドのある吹田や豊中まで、堺から電車を乗り継ぎ1時間半以上もかかることを心配していた。すでに堺の上野芝中に進学することが決まり、青英学園の友人たちと一緒にサッカーをする、それで十分ではないのかと考えていたのだ。
 
 しかし、ガンバからの誘いを受け、あっという間に夢を膨らませた潤一の想いがすべてを変えた。上野山の助言もあり、幸子は家族全員が潤一を応援することで、精神的な支えになろうと決めたのである。